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稲垣 足穂

いながき たるほ稲垣 足穂

  • 明治33~昭和52(1900~1977)
  • ジャンル: 小説家
  • 出身:大阪

作品名

キネマの月巷に昇る春なれば――我がはたち代

概要

私はこの題名のような文句を傍註にして、「或る小路の話」という短篇を書いたことがある。新潮に発表されると、若い人々のあいだでかなり評判になり、神戸三宮とはどんな所だろうと思って、西国への帰省の折に神戸へ立寄った大学生も二、三あったようである。

「或る小路の話」は、山手のグラマースクールへ通っている友だちが、西洋の女の子を紹介してやろうというので、春の夕方、彼と連立って、奇妙な裏道を通って先方へ逢いに行くが、生憎と不在であった。がっかりして引返してくると、向うに団々とした満月が昇っていたという筋である。
傍註は、「キネマの月巷に昇る春なれば遠く声して子らは隠れぬ」という友だちの歌からの借用である。この短歌は、やはりアスファルト街上にまんまるい月が昇って、その下で青い眼の連中が隠れん坊をやっていると云うのであろう。
この神戸三宮の山手の夜間雰囲気が、私に「一千一秒物語」を書かせた。それを清書して東京の佐藤春夫先生に送ったところ「君の書くものはなかなか面白い。本にするつもりなら助けてあげてもよい。ともかく一ぺん出てこないか」となったのである。私は上京して、上目黒の佐藤先生の許に暫くご厄介になった。「さんまの歌」「殉情詩集」の時期である。
実はこの藁葺屋は、先生の弟さん夫妻の住いだったので、翌年の初夏になるとちょっとした事情があって、家がたたまれることになり、私は道玄坂と平行した富士横丁の三階に移った。元料亭だったので、見晴しの良い三階があったのである。その次に神泉うら、更に恵比寿の「エビス倶楽部」へ越した。徴兵関係の事務所を運んできたとかで、やはり三階建だった。おそらくこれが東京嚆矢のアパートでなかったろうか。佐藤門にはいったのが大正九年十月、エビス倶楽部へ移ったのは、大正十二年の一月だった。
私は佐藤先生の関係から、新橋駅近くの「カガシ屋」に出入していた。そこは上山浦路の留守宅で、浦路さんの妹でやはり女優の上山珊瑚と、浦路さんの息子の赤坂中学二年の少年がいて、名物マユズミをおろしていた。他にお婆さんがいたが、この老女はやがて亡くなったので、少年はアメリカの父母の許へ去った。家にスペースができたので、この二階へ佐藤先生が一時身を寄せることになった。この辺の事情は先生の「侘しすぎる」の中に詳しく書いてある。
エビス倶楽部でいっしょにいた衣巻省三(彼は関西学院中学部で私の一つ下級であった)が「Hの代りにいい少年を世話しよう」と云って、ある晩私をつれて大塚駅で下り、巣鴨新田のダンスの先生の家へ案内した。Hとはカガシ屋の少年のことである。
いやそうでない。衣巻がまず独協一年生をつれてきて私に引き合わし、私はこの少年客に、未来派展覧会に出品した飛行機の絵を、おみやげにくれたのである。少年のお母さんから礼状がきて、「いつかニューヨーク郊外からの帰りに、灯のついた高楼の向うに三日月が懸って、この絵とそっくりの感銘を受けたことがあります。ちとお遊びにおいでなさい」とあった。このI姉妹の住いに、私はずるずるべったりに居候になってしまった。
その家はNという農学博士の、武蔵野を取入れた広い構えの片隅にあって林越しにバンガローが見え、その手前を小川が横切っていた。博士の子息が結婚にそなえて建てた家を、当分借りていたわけである。その子息も、また衣巻省三も、共に京橋のダンス教室の常連であった。
このダンスの先生の住いの前に、牛乳屋の牧場があり、だからご飯時にはずいぶん蝿に困らされたものである。牧場の右方に、やはりアメリカ帰りの芥川という人の菓子工場があって、専用の童話めく馬車がお菓子を積み出していた。さすがに工員らは真白なコック帽と服をつけ、窓々には細かな網が張られていた。
この前を少し南へ行って右へ折れると、生垣に囲まれた家庭学校があった。少年藤原義江がここに入れられていて、ある夜半に忍んできた年上者から、「ふだんからキミを思うていた。ボクは明日遠い所へ移されるので、もう一生逢えないだろう。お別れにどうか一ぺんだけキッスさせてくれ」と迫られそれを許したという所である。
大日原というのが近くにあって、この広場の中仙道への出口に「日の出便箋」があった。いつ通っても急がしい荷造りが行なわれていた。今日のコクヨさんのように繁昌していた日の丸じるしのレターペーパー屋を思い出す程の人なら、ついでに高畠華宵をも想起するであろう。
芥川菓子工場と斜めの位置に、真空地帯のような空地があって、そこに木立に包まれて、これも三階の、たてに細長い洋館があった。ここに売出しの挿絵画家が住んでいた。高畠華宵は三十すぎてから絵を習ったのだと私は聞いていたが、それも自分勝手な題材を描きたいためだったように思われた。彼は新ギリシア主義とも名付けたい肉体派で、彼が好んで取り扱う少年少女の肢態にしても、丹花の脣その他、どうも春画的だと云わないわけに行かない。売物の挿絵とは別に彼の想像に生れたいろいろな情景が一杯描き溜められているということを、私は人づてに耳にしたことがある。なんでも浅草と上野とのあいだに模型飛行機材料店があって、そこに華宵好みの小僧さんがいる。華宵は友達を連れて材料店へ出かけ、いつもどっさり買物をするならいだということも、私に知れていた。しかし私はついぞ高畠華宵を見たことがない。現に三階館から巣鴨中学へ通学しているという書生にも出会ったことがなかった。
数年前、私の小学初年第二学期から、向う三十年にわたっての根城だった明石で、郊外の養老院で高畠華宵は亡くなった。彼のクラシックの展覧会が天文館とかであったということも聞いた。これは何かの縁だと云うべきであろうが、私はとうとう華宵とは逢わずじまいである。――
あの頃、華宵が自分の近所に住んでいたのは、日の出便箋の関係からだな、やっと最近に気が付いたような始末である。

『稲垣足穂全集 第12巻』筑摩書房 407?409P

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