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稲垣 足穂

いながき たるほ稲垣 足穂

  • 明治33~昭和52(1900~1977)
  • ジャンル: 小説家
  • 出身:大阪

作品名

パテェの赤い雄鶏を求めて――オブジェ的自伝――

概要

1 カラーについて

私はマックス=プランクが量子常数hを発表してから約三週間後、一九〇〇年十二月二十六日に、大阪市船場北久宝寺町二丁目(現在、旭光製糸KKとその西隣りの貸室四階の永久ビルがある辺り)の狭苦しい家に生れた。この年にはライト兄弟が、彼らの最初のグライダーを北カロライナ州キッティホーク海岸へ運び出している。ツェッペリン伯爵の第1号飛行船が、コンスタンツ湖のおもてに初めて影を落した。日本では横田商会の横田永之助が、稲畑勝一郎からフランス輸入の映写機ならびにフィルムをゆずり受けて、全国巡回興行に乗り出した。――。
どうして、家並に紺や白や黒の分厚い麻地の暖簾が懸って、大きな将棋の駒や超特大の歌留多の札が軒端にぶらぶら揺れている問屋街に私の家があったのかと云うと、そこは父の歯科医術修業地であった。つまり私の祖父が彼の同僚の梅谷という開業医に、養子の仕込みかたを委任し、父は二十歳そこそこで免許証を獲り、師匠の膝元で開業したという段取になる。「立売堀の梅谷先生も夏には水風呂に浸ったりして相も変らずお酒を飲んでいたから、案外に若く脳溢血にやられてしまった云々」と家人が話していたことを、私は憶えている。
祖父は兵庫県もずっと奥まった多可郡の産で、明石へ出てきてからは旅廻りの小さな興行師であった。数匹の猿を伴ったそれであり、また彼自身発案の覗きからくりであったが、明治維新に転業を強いられた香具師仲間の例にならって、彼もいち早く新職業の入れ歯屋(原本では傍点がうたれている)になったのである。彼は十人きょうだいのうちの一人で、丹波の山奥からひとりで脱出してきたような人物だから、姓などは無い。明石では「近江屋」を名乗っていたが、これは有り合せのものを使ったまでである。「稲垣」もその通り。父方の祖父は対岸淡路島の出で、「嶋」と称していたが、本当は藤原氏(原本では傍点がうたれている)である。南、北、式、京、そのどれに当るのかは不明である。なんでも八世紀頃に天皇のお伴をして奈良の都から淡路島へ渡った連中の末裔だと云うのだが、もしそんなことまで持ち出すなら、日本人の大旨は源平藤橘にきまっている。この祖父には三人の男の子と一人の女児があった。長男は勝手に他家の養子になってしまい、典獄だの工業学校の建築科の先生だの、一時は羽振りもよかったのだが、お酒のために零落、晩年は篆刻や仏像彫りや絵や歌によって辛うじて振舞酒にありつくという窮状であった。次男は船大工だった。これも本職よりも知人からの頼まれ仕事の家具造りに凝って、あげくの果ては脚気衝心であった。三男は表具屋の徒弟を経て町役場の給仕になったが、その傍らアコーディオンをやっていたので、私の母方の祖父が同じ町内で組織していた少年鼓笛隊の一員に選ばれ、やがてその養子に迎えられた。この時父は十六歳くらいで、先方の一人娘だった私の母は、私の父よりも一つ年上であった。(後略)


『稲垣足穂全集 第10巻』筑摩書房 141?142P

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(前略)
大正三年四月から私は、神戸市東郊の関西学院中学部へ明石から汽車通学をしていたが、この第一学期の中頃に、放熱器の謎が思いがけなくいっぺんに釈けてしまったのである。どういうきっかけだったかは一向に思い出せない。只学校の行き帰りの三ノ宮の山手すじで、停っている自動車の前に佇んだ私は得意であった。乾アンズとプラムの匂いを放つ西洋の少年少女らに対しても肩身が広かった。おそらく、「この蜜蜂の巣は何物か?」との質問に応答できる者の数は、自分の級友のそれよりも遥かに少ないであろうことがよく判っていたからである。
私は暇さえあれば、ノートでも教科書の余白でも、手当り次第の紙面に、「オットー氏2衝程機関」の縦断図ばかり描き並べていた。それは4衝程式よりは構造が簡単で、且つ吸入圧縮の過程がおもしろかったからである。
あのパイプやヴァルブや電纜がごちゃごちゃしているエンジンの内部にも、汽車汽船の機関にあるようなピストンが往復しているのだと知ったことは、何か知ら呆気なかった。しかしそれだけに私はうれしくて堪らないのだった。では今まで度々、近所の木下鉄工所の試運転を覗いていたのに、また港内の桟橋で巡航船の機関室でヤキ玉が焼かれているのをよく知っているくせに、何故そんな簡単な原理に気付かなかったのか?それは第一に、船舶用石油発動機の上にはガソリン的なエグゾーストの匂いがしなかったからである。更に小学生の頃には、自分は機械の原理よりもむしろそのムードに惹かれていたからである。

(後略)


『稲垣足穂全集 第10巻』筑摩書房190〜191P

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