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稲垣 足穂

いながき たるほ稲垣 足穂

  • 明治33~昭和52(1900~1977)
  • ジャンル: 小説家
  • 出身:大阪

作品名

松帆浦物語

概要

こぬ人をまつほの浦の夕なぎにやくやもしほの身もこがれつつ

私が岩屋へはじめて行ったのは、大阪から明石の祖父の住いへ移って間もない頃、小学一年の秋であった。夜、波打ちぎわに立つと、向って左手の淡路の山裾にちらちらと灯影を瞬かせているのが岩屋の町で、絵島はこの家並の東外れに、いましも吹管を離れようとするシャボン玉のようにひっかかっている。町の反対側、江崎灯台までのあいだの松原が、即ち松帆浦である。絵島の磯で私をおどろかし、気分をそこねたのは、澄明な海底に点々と見えるあめふらしであった。岩の上に引きあげて棒きれで突つくと、濃い紫色の汁を出した。これは何とも知れない奇怪ないきものであった。「春、磯に見られる」と広辞苑にあるから、あれは一年生の第二学期でなくて、すでに二年生になった春のことだったのかも知れない。その日、大船小船が行き交う海峡を前にした旅館の部屋で、自分が何をたべたかは思い出せないが、只家へ帰ってから、祖父は、「タルホがよくたべるのにびっくりした」と家人に洩らしていたことだけを憶えている。
同じような見晴らしのいい座敷で、ある時、私の相手は父であった。左と右に松の梢の上に明石城の櫓が白く光っている他は、何の変哲もない対岸を欄干越しに眺めて、父は、「こちらから見るとしょうむない所や、左の方にオコウ山とメコウ山が目立つくらいのものや」と説明した。
あと二回ばかり、夏休みに遊びに来た関西学院普通部の友だちを誘うて、私は絵島へ出向いた。学校を終えてからは家の書生と共に一ぺん行った。岩屋に出張所を持っている歯科先生から招待されたわけである。彼はまず冷やしてあったパイナップルの缶詰をあけた。私は中身は食べたが、汁は飲まなかった。「タルちゃん、おつゆがおいしいのやないか」と主人は言って、缶を口にあててさもうまそうに飲んでしまった。
最後は、散歩の途中にふいに思いついて、連れの中学生を桟橋へ伴ったのだった。少年がお腹をこわしているのはなかなか風情があるものだが、この日は私自身の腹工合が怪しかった。
歌の淡路の海こえて
絵島ヶ磯に風立てば
秋やよき日のうるはしき(芳水詩集)
とてもこんなことどころでなかった。岩屋の町を過ぎて、絵島へ差しかかった頃、もう辛抱がし切れなくなって、少年にゆっくりやってくるように言いつけ、私は駆け出して、岩の間に懸っている橋の下に飛び込んだのである。下腹のシクシクは直りそうでなかった。ちょうど連絡船が出たあとで、次の便を小一時間待っていたあいだ、汽船乗場の売店のテーブルに倚って、ぬるい燗をした壜詰をちびりちびり飲んでいたが、何事を口にする元気もなく、ひどく気分が引き立たなかった。



松帆浦物語には、中世少年愛物語にめずらしく社会的関係が取扱われている。第三者の邪魔がはいって、一切が悲劇に終ってしまう話だからである。
中納言の若君が、おじの禅師の勧めがあって叡山へ登った。一山のおぼえもめでたかったところ、三年あまり経って十四歳になった時、禅師は、「いっそ出家して、父中納言卿の亡きあとを弔わせてはどうか」とあったのに、兄の中将の君、母親などが不安に思って、京へ呼び戻して、元服させ、藤侍従と名乗ることになった。侍従は元服負けしたどころでなかった。いよいよあでやかに、諸人の胆を奪う少年振りであった。これを山で馴染の法師らがさそうて、北山の花見に連れ出したところ、岩倉に住む宰相の君という者が見染め、型通りの歌が交され、二人はねんごろになった。この道は本場仕込みであった筈だし、侍従は自らの容色については相当の自信を持っていたことだと思われる。宰相との交情が三年ほど続いた時に、この次第がいまを時めく左近衛大将の殿の耳にはいり、否応なしのお迎えとなったわけである。宰相が御殿の周りをうろうろするので、それを五月蠅がって、大将の殿は淡路島へ島流しにした。侍従には大将の寵愛は別にいやでなかった模様である。あるいは宰相のイメージを懐いて大将に抱かれていたのかも知れないが、それでは満足出来なくなって、わずらうようになった。思いあぐんで、岩倉で知り合った伊予法師というのを道案内に都を脱出して、淡路島へ出かけるが、宰相はすでに焦れ死んで、ちょうど七日目のことであった。淡路の海へ身を投げようとしたのをさえ切られ、髪を剃り落し墨染の袖に着換えて、主従共々に高野の山を目ざした。あとは知らずかし。
大将の殿が道楽者であることは言う迄もないが、宰相というのもこの道にかけては達人だったように、私には見受けられる。彼はしかしついに理想の少年とめぐり合って、ともかく三年間は我物にして、それから仲を引き裂かれて島流しを蒙り、お尻恋しさに死んでしまった。これは本望であったろう。一方、侍従も少年の盛りを全うした。岩倉の宰相、近衛大将を相手にし、宰相の余香慕わしさに都を出奔して、念者の最期を見届けたのだから、この上何を言うことがあろう?只その後、彼らの目指した所が高野山ならば、もうひと騒動惹き起した筈だ。何故ならそこは斯道の本山であるからだ。刈萱石童のエピソードも一つに念若関係を体裁よく書き替えたのだと云われているくらいである。侍従の坊主頭など問題でない。時代は下るが、関白秀次が高野山へ預けられた時、この一行は太閤への謝罪のためにみんな頭を丸めていた筈であるが、中にまじっていたお小姓、即ち山本主殿、岡三十郎、不破万作らに、一山が動揺したという記録が残っている。侍従の念者狂いは高
野山でこそ大成したのかも知れない。
しかしおそらくそうでなかったろう。身分の差異があってなかなかのことだと思われるが、供人の伊予法師が侍従の上に気があったことは確かである。彼の献身振りはそこ
に出ている。多分、法師は侍従の君を再び都に潜入させて、人目隠れた所に住わしてよろしくやったことだろうと察せられる。
(後略)

『稲垣足穂全集 第13巻』筑摩書房 132?134P

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