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兵庫ゆかりの文学

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稲垣 足穂

いながき たるほ稲垣 足穂

  • 明治33~昭和52(1900~1977)
  • ジャンル: 小説家
  • 出身:大阪

作品名

HOSHINOさん

概要

この瀬戸内海の入口にそうたちいさな都会から、私はほとんど毎日神戸の街へ出かけますが、私の町のステーションでときどき見かける十四五ぐらいの混血児みたいな少女があります。一目見たときから好奇心がそそられたのは、それが混血児のようなと云っても決して混血児ではなく、エキゾチシズムとは全く縁のないエキゾチシズム――もしそんな云い方をしてもよいなら、ちょうどそういう異国的の匂いのある、だからまた谷崎潤一郎氏のナオミなどのような悪どさをさらりと洗い落している我日の本の少女であることなのです。それにこういう私が、そんなふうなリファインされたあたらしい日本を神戸の街から見つけ出したい、できるならそれを自分のカンバスの上に把えてみたいと思っていた矢先なのですから、マリーローランサン夫人の「夜の街ですれちがった白い顔」のことも考え合わせ(むろんローランサンの画の妖気などはこの少女にはありませんが)どんなにそのひとを描いてみたくなってきたかはおわかりになって下さるでしょう。それはこの少女をはじめて見かけてから二三週間すぎた七月の上旬のことでしたが、神戸を知っている人の目にはきっと止っているトーアロード、――街の東方の山すその若葉の上に赤いお伽噺の衣裳をつけて立っているトーアホテルから、海岸の商館街までまっすぐにつづいているアスファルトの坂のことですが、私は明るい日ざしの下にあるその一くぎりを、坂の中途にある友だちの家の窓から未来派風にえがいてみたのでした。もうツァイライトが忍びこんでくるうすぐらい部屋のなかで大方出来上った絵をしらべようとしたのですが、とたんに私は目をパチクリとさせずにはおられませんでした。坂の両側にならんだ婦人洋服店だの、シルクストアだの、外国タバコ専売店だの、つた(原本では傍点がうたれている)におおわれたチャーチだの、いつもアメリカ人のお内儀さんが腰かけているべーカリーだの、ソーセージやベーコンをならべたガラス窓だの、最新の流行品をかざったヤンキーショップガールの店だの、支那人の男ものの洋服店だの、ワンピースの糸屋だのが風車のように入りまじった上には商船会社のルーフガーデンがあり、さらにむこうのメリケンハトバには青や黄の煙突をつけた汽船が碇泊してランチが鴎(原本はとりへんに区の旧字体(匚の中に品))を追いちらしている、……こんなゴチャゴチャした画面のすみに、いつのまにどうしたものか、モデル(もしそんな幸運をめぐまれたなら)としてでなければ決して描かないつもりでいた少女が、アメリカンピンクの服をつけて、それが画の中心であるかのように立っているのです。おやと思ったときそのすきとおるような色白の顔がほほ笑んだのです――が、むろんこんなことは夕ぐれの光線の魔法で、活動写真の時間がおくれると云ってせきこんで入ってきた友だちが、電灯のスイッチをひねるとたん、えがいたおぼえのない少女はなくなっていたのでした。
しかし二三日たってちいさな都会の西の方にある掘割にかかっている橋の上で、私はひょっくりと、が、こんどはほんとうのそのひとに出逢いました。いつもとちがってふだんのなりでしたが、そこにはまた西洋人がキモノを着ているような愛らしさがみとめられて、私はちょっと立止らずにはおられませんでした。和服だからどこか出張ったようなところもあり、やはりこのひとは洋服だと考えられましたが、どこかお友だちの家からでもの帰りらしい片手にもたれている少女らしい文学雑誌を見て、ここにもモデルとしてのよそおいの一つを見出したのです。そう云えば、このときふいに思いつき、どうして今まで気付かなかったのだろうと思ったのですが、それはその少女のどこか少年めいたからだ付きが、あの高畠華宵の画とそっくりであったことなのです。顔立だってまるでそれからぬけ出してきたようだし、この一ときの私は、「現実は常に夢のあとを追っかける」という言葉を思い合わして大へん愉快でした。なぜなら、洋服とふだん着のときとを合わせてその少女が派手好みだとは知られたものの、それは決してぜいたくではないのです。少女はもはやダイヤモンドや退屈なしゃれやできるだけ遠まわしにする言葉を入用とする時代にはぞくしていないと考えられたからなのです。
そのうち、私はある人からその少女がHoshinoUrikoさんであると教えられました。ではもしかして私の父の友だちである同名の人の娘さんであろうかとたずねてみましたが、間ちがいなくそうなのでした。それなら自分の画架のまえに立ってもらえないだろうか、そういうことを何回か云おうとして云い出せませんでしたが、そのかわり、そのひとがバレーボールの選手でありフォワードをやっていること、英語が上手なこと、少しおちて作文と数学、しかし学校の成績はいずれも七十点内外であることなどをきくことができたのでした。海べはもう海水浴のシーズンに入って、Hoshinoさんではないかと胸がときめく赤や青のかたまりをとおい砂の上に見つけると、私はもう思いがけない機会なんか待っていることができなくなってきました。自分の頭のなかに一ぱいなHoshinoさんをできるだけ早く一枚の画にしてしまおう、そう思って私は、それは私たちのクラブになっていたと云ってもよいトーアロードの友だちの家に泊りこんで、朝から二百号のカンバスに向ってチューブの色をときはじめました。
アメリカンピンクの服のとき
キモノのとき
運動着のとき
海水着のとき
オランダの女の子のあらい格子縞の服?
それよりもアメリカのガールスカウトの服?
茶革の飛行服でもよい。ほんとうにHoshinoさんのうつくしさは、型を破ったというどんな型にもぞくしていない。鶴のマークをえがいた戦闘飛行機のプロペラーに肩さしよせている顔は、かつて未来派の人たちの達見に云われた鳶色と紅と緑とで彩られなければならぬ。そこにはおそらく半世紀ののちにはいずこの国の少女たちにも見られる健気なうつくしさが漲るであろう。
(後略)


『稲垣足穂全集 第12巻』筑摩書房 130〜132P


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