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兵庫ゆかりの文学

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稲垣 足穂

いながき たるほ稲垣 足穂

  • 明治33~昭和52(1900~1977)
  • ジャンル: 小説家
  • 出身:大阪

作品名

郁さんの事

概要

何や、郁さんの事か。郁さんとワイとは比較的最近やで。尤も神戸には以前、射手、旗魚などいう詩の本があったな。これをシャシュ、キギョなどと発音する者があるさかいに、この機会に注意しまっが、いて(原本では傍点がうたれている)、かじき(原本では傍点がうたれている)と読むのやで。共に、南半球にある星座で、SAGITTARIUSそれからDRADOと云う。郁さんか、福原はんか、山村先生か、小川和尚か、その中の誰やかは知らんけんど、妙に星座の名ばっかり選ぶ連中やな。今度はコンパス、即ち羅針があるわい、北緯約三十五度の日本におって、南の空が恋しいとは誰ぞいな。
郁さんはこんな本の同人として昔から名があった。あれが神戸の竹中氏やと、いつぞや新宿の駅で教えてくれた人があったが、振り向くともう見えなんだ。この郁さんについて何ぞ一言云わんかという岩佐はんの御言葉であるが、人も知る如くワイは詩には素人、小説と云うてもあんな御筆先みたいなもんより書かれへんし、おまけに一年じゅう甲虫みたいにジーとしとる人間やさかい、実は、郁さんについて、これを褒めようにも、突込もうにも、又、皆さんがどう思うていなはるかを知らそうにも、全くネタがないのや。それでお断りしたんやが、神戸のよしみ、何とか云えと云う事で、ここに筆を取っとる。気の利いた事なんぞ云える筈がない。
「あんな紅顔美少年が何や」とか「あんな気障なもん殴って了え」とか、こんな言葉は、昔から、郁さんについて聞いとった。が、会うてみたら、そうでもないな。そういう事を云う者は、竹中郁を知らんか、そうやなかったら頭の悪い男やな。郁さんは、その名の示すとおりの我日本の新らしき、海港の詩人やな。これは一人よりないな。こういう点を、つまり田舎紳士連が嫉くのやな。こう云うと失礼に当るかも知れんが、郁さんの芸術作品はともかくとして、その作品を作り出す郁さんその人、その周囲、郁さんに詩を作らせる事象と郁さんのそれに対する取扱い方、こういうデリケートな問題になると、東エビス共にはもう一つ呑み込めぬ所があると思うな。これについてずるいとか、賢いとか、上手だ
とか云う人もあるかも知れんが、ええ加減な事ばかりやっておっては有名にもなれへんし、事業も出来ぬし、金も集らぬし、詩も書かれへんぞ。つまりこれは物判りがよいという事で、「今日は」と挨拶をされて「今日は」と挨拶を返す、それが一そう洗練されたもんや、「何が今日でえ、今日がどうした」と返事をしたら、もう何もかも要らんのやないか。勿論上方にはいやにねばねばした所があるけんど、がそれを全く取除けたのが郁さんの場合やな、郁さんは神戸の紳士やからな。HE COMES FROM KOBEやからな。
とは云うもんの、このワイも、郁さんの「象牙海岸」というのを拝見して、象牙の海岸でも変化の海岸でもかめへんやないか、又この本の中に治めてある詩にしても、何も郁がオペラの番付に書こうが、蟹料理のメニュに写そうが、カフスに記そうが、そんな事を仰々しく広告して何になるのや、という気がしないでもなかった。所が郁さんという人に会っているとそういう不安は解消してしもうたな。どういう意味やを訊ねるのか、どういう意味もこういう意味もないのや、解消してしもうたんやさかいに。
ワイは何にも判らんけれど、硝子窓に映っている夕雲の拭き消すだの、縄飛びをしている女の子は球の中に入っているだの、イナビカリのした空に不思議な世界が見えただの、又、闘牛の牛が紅いリボンを脚に縺まれてツンのめるの、それからこの二三月前には燕の来る三等郵便局だの、そういう詩を読むと、こういう事を書かせては、第一人者やなと思う。堀辰雄の散文と共にこれはすこぶる注目すべき事やとワイは思うとる。他の者がうっかり真似したら怪我をするさかいにな。
霧のパリを「御免」「御免」と云って壁を伝うて歩く話だの、有名なあの写真屋のおっさんの話なんかを「そうでっか、そうでっか」と云うて聞いとったが、堀はんと一緒に郁さんが来たときから、この「そうでっか」をお互に改めて「さよか」「そうや、そうや」という工合にやる事に相談一決して、そこでこの紀念すべき夜に、海港の詩人竹中郁氏は即ち「郁さん」になったのであり、当方は「タルちゃん」と変ったのや。
このタルちゃんについても、これは結構至極の話やが、稲垣足穂さんというのは、そうやそうや確に聞きました、政友会の議員はんやと云う人があるそうな。我郁さんについてもこれは最近「かつて竹中郁子さん御外遊のみぎり」と云うていた人があったから嬉しいやないか。郁さんよ、これくらいで堪忍せよ、ワイは何しろ、ペルシャ王子サイラスを想わせるあんたの頭髪を買うとる。ごめんやっしゃ。


『稲垣足穂全集 第1巻』筑摩書房 504?505P

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