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兵庫ゆかりの文学

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稲垣 足穂

いながき たるほ稲垣 足穂

  • 明治33~昭和52(1900~1977)
  • ジャンル: 小説家
  • 出身:大阪

作品名

鼻眼鏡

刊行年

1925

版元

新潮社

概要

その頃、私は舞子から、神戸の東郊にある中学校へ汽車通学をしていました。K・Yという下級生も同様に、これはステーシションを二つ置いて神戸に近い須磨から、通っていたのです。
K・Yを初めて知ったのは、私が三年生になった春の終りのことでした。帰りの汽車にひとり乗っていた時で、鷹取駅を発車すると、幸い乗客が少ないので私はポケットにバットの小箱を探って、然し一応左右に眼をくばる為に立ち上ると、うしろから、
Iheartheir
gentlevoices
callingOldBlackJoe
英語の唱歌がきこえたのでした。それは発音を辿りながらうたっているのですが、節廻しがなかなか上手で、小さな声がそれこそgentlevoiceなのです。で、そっと覗いてみると、私とは背合せの腰掛からすべり落ち相な、殆んどあおむけの姿勢になって、私の学校の制服をつけた少年が、胸の上に、紫リボンのたれた唱歌帳をひろげているのでした。窓枠から射し込む日光を受けたその首すじが、ちょっとめずらしい品のよさに置かれていました。同じ汽車組の中にこんな新入生がいたことはついぞ知らなかったものですから、どんな顔立であろうと、私は、もっとからだを伸ばしました。このとたん急にうしろを向いた相手の眼と衝突して、二人は双方から笑い合いましたが、すると少年は、あわてて唱歌帳を、かたえに置いてあった教科書の白い包みの下に敷いてしまいました。次のステーションで下りた少年の後ろ姿を、私は、車窓からやや感心して見送っていました。何故なら、彼のきれいに剃られている耳の上から、真白なカラー、折目のついたズボン、磨きのかかった靴、何処にも非のうちどころとては無かったからです。いくら家がやかましくても、一年生やそこいらでこんなにきちんとしているのは、きっと本人の趣味に依るのだろうな、と私は考えてみました。が、もっと気を惹かれたのは、彼のおとがいすぼりの顔が、学校のうしろの、ポプラに囲まれたカナディアンスクールの生徒のように白くて、薔薇色の脣を持っていたことです。それに、まつげの長い眼と眼とのあいだが、なんだかややっこしく、クシャクシャとなっていて、ちょうど鼻眼鏡をかけているような印象を与えました。

次の朝、登校の汽車が学校下のステーションに着いた時、昨日の混血児のような少年を、彼の仲間がどう云って呼ぶであろうかと注意していると、同級生らしいのっぽの生徒が、いましも改札口を出ようとしている例の少年の背後から、「ハイカラー!」と呶鳴りました。
その「ハイカラー」に、私はまた二、三日経った帰りのステーションで出くわせました。彼はプラットフォームのベンチに腰かけて、多分この日何かの用事で連れ立っている、彼の家の書生だと受取れる人物に向って、何やら小声で話していました。それが書生によく通じないらしく、「何?」「何?」ときき返すと、その坊っちゃんは、傍らにいる学友仲間を憚るように、ベンチから立ち上って、私の方へ歩いてきながら、腰をかがめている書生の耳元で、気まりわるそうに何事か小声で繰り返していました。こんな情景は、程なく汽車がやってきたのを合図に、私をして先日の背高の級友をつかまえて、少年の名前を問わせずに置きませんでした。K・Yという名を教えてくれたクラスメートは、つけ加えて云いました。「あいつは家では大将なんだって――」で、帰るなり電話帳を繰ってみると、果して西須磨××番とあって、その下方には耳にしたとおりの名前が出ていました。私は、汽車中でそれとなく考えてみた、「一人子にあんな身づくろいをさせている比較的若いお母さん」がほぼ的中したことを知って、云わば微笑ましい気持になるのでした。そのお母さんは、そのうち本当に見ました。
七月に入ると、西洋人の先生たちは避暑地へ発ってしまい、課目は午前中だけになります。月半ばには正式の夏休みが始まって、それから数日目の朝のことでした。ちょっとした用事で神戸へ出向いた私が、帰途に須磨駅の上りのプラットフォームに眼をやると、霜降の制服を脱ぎ棄てて、ヘルメット帽にクリーム色の半ズボン服を着たK・Yが、いつかの書生といっしょに、佇んでいました。傍に、明らかにお母さんだと受取れる、藤色の和服を着た中年の女のひとがいて、うしろにトランクが二つ見えたので、ははん、と思っているうちに、シュッと上り列車が鼻の先を遮ってしまいました。(後略)


『稲垣足穂全集 第1巻』筑摩書房 169?171

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