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稲垣 足穂

いながき たるほ稲垣 足穂

  • 明治33~昭和52(1900~1977)
  • ジャンル: 小説家
  • 出身:大阪

作品名

わが一九二三年のマニフェスト

概要

1 耳隠しのかなた

近頃、この海ぞいの小都会のステーションから、おひるすぎに神戸へ通っている十四、五歳くらいの混血児のような少女がいる――と云ったら、その場所に関係がある人々が思い当ってくれるかも知れないように、僕がその顔を見たというだけでこのペンを執ろうとする意も他ならぬ、高畠華宵の絵とそっくりな彼女の面立だ。
七月上旬の土曜日、ある人を待ってステーションの入口にいた時、初めてそのことに気付いた僕は、まあこんなにもよく似ているのかと眺めた。少し大きな連れと何かお喋りしている先方の小脇には、余り名前を聞かない、しかしその故をもって余計に少女らしくもある文学雑誌が挟まれていた。僕はうしろから友人が来なかったなら何か云いかけようとしていた。だから、もしこの手記がその子の眼に止るようなことがあれば、きっと雨上りの眩しいあのお午すぎを思い出してくれることであろう。女学生には見えない短かい袴などから、多分この街の裁縫か何かの学校からの帰りのように考えたが、実は少女の住いはこの海峡の町で、あの時は神戸(それは交換局辺りではないか)へ出勤途中だったのだということが、追々に判りかけた。その同じ人に数日前の夕方、町の西方の掘割にかかった橋上で出食わしたからである。普段の装いの少女はお使いの帰りらしく、オヤ、この辺にいるのかなと僕が立止るようにした時、西洋人がキモノを着た愛らしさと、透きとおるような色白の横顔に桃色の夕陽が射して、場所もコールタールと潮の香がする港の一隅に、再び申し分のない少女小説にある華宵の挿絵を織り出したのである。
僕は東京北郊で高畠華宵の近所に住んでいたことがあり、先方とは友人の関係にあるというM氏からいろんなことを耳にしていながらついに逢わないでいるが、あの絵に文句がないわけでない。しかし挿絵に過ぎない制作をそれ以上に要求するのは間違ったことだし、一目して判る独自性をもって、何にせよ今日までなかったタイプを創造している点には何の異存もない。それが時代の意識上において心に触れる何者かを持っていることは、今日の少年少女の誰ひとりとて華宵を知らぬ者がない事実によって裏付けられているのである。例い華宵ファンの少年の前に谷洗馬を持ち出して、気品の上下を問い、そう云えばやはりこちらだと少年が後者に軍配を上げたとしても、前者の貴族趣味の軽薄さが、呼び醒まされようとしている新意識に通じていないとは云えないのである。これは少女の場合に移しても同じである。いわゆるエキゾチシズムがそれ自らを絶縁したと云えるような健康状態において解釈されているからだ。こんな少女に飛び切りな装いをさせてみる「ナオミズム」も、この人ゆえには更に洗練された「我が日の本」の暗示が読まれるような青い眼なのである。これが何物に展開するかは今のところ判らない。只僕はそんな生れかかっているもののこの上もない代表の上に、「現実は常に夢を踏襲する」というような愉快を覚えたのだ。心の蝋燭に灯を点じるマッチは、夜の街で擦れ違った白い顔で十分なのである。

2 ガス灯の記憶

「あの街、なんだか一晩で出来たような所があるね」と人生派の友だちが言った。「海洋気象台の円屋根と塔とはボール紙細工である」と断定したダダイストもある。
「ある夕方湊川公園から東の方に大きな真四角な建物が見えるんだ。それがどうしても見覚えがない。それなのにでっかい建物は入日を受けてキラキラ光っていやがるんだ」この都会についてなら何でも知っている男ですら、私の前に漏らした。
こういうわけで、その港の街は「鶏が啼くまでの寿命」に置かれているのか知れないが、ともかく今のところはなかなか他とは異った趣きを保ち、月や星や、雨の晩に応じてそれぞれにファンタジーを惹き起すのに十分であるが、たった一つ欠けているものがある。それは様々の夢心持を描いている私が、より効果あらしめるために――というよりもむしろ当然の次第として、そこにくっ付けているガス灯が見当らぬことだ。それも昔はあったそうだが、電気局を市が買収してからはすっかり影を潜めてしまった。でも、たやすくは覚えられない山手のメーズの奥に、例えばアイルランドのある村の一隅を真似したという区域があって、一本ぐらいは見付かるかも知れないと、そんな空想を取扱った私の作品を読んだ人が物好きな予想の下に毎晩探してみたが、やっぱりどこにも無かったのである。この次第をこんどは私が、神戸の西端に住んでいる一少年に話してみたら、
「僕の近所にありますよ」と云う。なるほど同じ市内でもそんな隅っこならばあったのかも知れないと思いかけたが、
「――それが小っちゃな玩具のようなもので、急カーブの坂の脇に五本ほど並んでいます」
「郊外電車の停留所の山側でしょう」
「そうです」
「あれはガス灯の形をした硝子箱の中に、普通の電灯がはいっているだけでありませんか」
「じゃガス灯って何」
「白いマントルに青い灯が燃える」
と説明したが、首をかしげた少年だったので、それはいよいよどこにも残っていないことに決まった。
ところが最近になって、たった一本だけが見付かった。海岸のK造船所の構内で、税関へ通じる広い道の傍らに、星々の燦めく中ぞらにそそり立った造船台の鉄骨を負うて立っている。直ぐ側を、その青い光を受けたレールが、所々に碇泊船のケビンの灯が洩れている暗い海の方へ続いているので、その一くぎりは宛然としてゲオルグ=カイゼルの舞台面だ……と云う。この発見者は前に三ノ宮山手界隈を調査したのと同じ人であるが、こんどもそんなことで私の許へ駆けつけてきた程であるから、つまりは世に夢見がちの種属であろう。といって、その気分を楽しむ点ではなかなか気紛れではない夜々の散歩によって、思いがけぬ新事実を今までにもたらしてくれているのだから、「ガス灯風の電灯」などでは更にあるまい。そのうちいっしょに出向こうという約束ができた。
私は今日まで山手方面ばかり書いてきたが、町の中央部の海岸付近も捨てがたい。人けのない真黒い倉庫の半面を皎々とアークライトが照らし、霧のようなものが漂っている棚の向うに置き去りにされた貨車を見たりするのは、探偵小説中の一場面のようであり、又、「階級芸術に於けるミステリー」というようなことも考え合わされる。ガス灯を見に行く話はまだ私に実行されていない。


『稲垣足穂全集 第1巻』筑摩書房 274?277P

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