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賀川 豊彦

かがわ とよひこ賀川 豊彦

  • 明治21~昭和35(1888~1960)
  • ジャンル: 牧師・キリスト教運動家
  • 出身:神戸市

作品名

六甲裏山の美

概要

詩聖ゲーテは、フアーストをして人生の疲れを癒す道を山に求めしめた。処女の操を蹂躙して苦悶を重ねたフアーストはアルプスの高峰にオーロラの走るのを見た。高踏の予言者トーマス・カアライルは、哲人トイヱスドルフをしてハイデルベルグの岡の上に、超然として市井の塵芥を眼下に見下さしめた。都市の混乱を眼下に見くだして山頂に悠然と閑居することは、愉快でないことはない。不思議に京都には東山あり、大阪に生駒あり、神戸には六甲山がある。
しかし京都の東山は、近代色にかけてゐる。大阪は煙が多く、生駒の山々はくすぼつたやうで苦しい。ひとり六甲の尾根づたひは、山も広く、迷うてあれほど面白い山遊の出来る所は少ない。
宝塚から登つてゆくと、西に約六里の間、大阪湾を眼下に見下した北方丹波路や、播磨路を遥にながめて、大陸気分にひたり得て、六甲の峰づたひほど感興を湧かすものはない。山の上を自動車も走れば、ケーブルもかゝつてゐる。しかしそれくらゐで山の興味が殺がれるには六甲は余りに広すぎる。裏六甲は、こゝ十年や二十年人間の手で汚れないほど、広くかつ奥深い。あれほど簡便に、あれほど神秘に、人生の苦悶を忘れて、私を自然のよろこびに導いてくれる所は少い。
至る所に清水が湧き、至る所に苔が蒸し、山を伝へば瀬戸内海も太平洋も足下に、鏡のやうな静けさを以つて横たはり、その雄大さは香港やナポリの比ではない。勿論ベルリンにもロンドンにもニユーヨークにも、そんな面白い所はない。たゞ一ケ所シアトルの奥山が、神戸の六甲によく似てゐるが、屋根づたひの面白さに欠けてゐる。結局郊外の自然公園として、私は六甲の裏山ほど面白いところを世界で知らない。
ちひさく歩けば、布引の滝から登つて、貯水池を下にツエンテヰー・クロツシングと西洋人のつけた渓谷を二十回ばかり渡りまはり、谷間の美にひたりながら、再度山の原生林に欅や椋の大木を眺め、鍋蓋山からひよどり越の絶壁まで屋根を伝うて行くと、何ともいへぬ面白さがある。逆にまた烏山の水源池から登つて、屋根伝ひに摩耶山の裏をたどり、六甲まで出る道も面白い。六甲も摩耶に出ないで、徳川道と称する古い山道を北に迷ひこむと、面白さはまた一しほである。六甲の裏山には西に流れる渓谷が三つ四つある。その一つ一つが特長を持つてゐて、これをのぼりくだりしながら摩耶に出たり、再度山に出たりすることは実に面白い。六甲の三国池から、有神電車にぶつゝかるまで、道のりは三里くらゐあるだらうが、裏山といつても縦幅一里半、横幅二里位あるだらうから、自然公園としてはもつて来いである。
しかもこゝには、阪神地方にみられない原生林がそのまゝ保存せられてゐる。
私は貧民窟生活につかれると、毎週の土曜日この山奥に逃げこんだものだつた。

『日本随筆紀行第19巻 神戸/兵庫 ふり向けば港の灯り』
作品社 92、93P

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