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兵庫ゆかりの文学

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たまおか かおる玉岡 かおる

  • ~ (~)
  • ジャンル: 小説家
  • 出身:兵庫県三木市

作品名

サイレント・ラヴ

刊行年

1992

版元

新潮社

概要



六甲には一体いくつのトンネルがあいているのだろう。北神急行の、長い長いトンネルの闇に自分の顔を映しながら、私はこの山を突き抜けるトンネルの数を数えていた。縦に抜けるトンネル、横に抜けるトンネル、こんな穴だらけの山というのもまた少ない。
新幹線のトンネルのように、横断していくトンネルならば街の様子が出口と入口でそんなに変わることもないが、ここのように縦につきぬけていくトンネルは、表六甲、裏六甲と言われるように、がらりと変わる。
表六甲は、異人館や居留地に代表される、海に向けて開けた明るい都市であり、いわゆる神戸といわれる時の神戸である。しかし裏六甲は、かぎりなく山であり、文字通り六甲山なのだった。出原はさらにその奥ふところにある。
新しい電車が開通してダイレクトに表とつながった有馬街道の沿線は、そのお陰で急速に開けていき、マンモスタウンとなったが、それでも、迫ってくる山の風景はやはり昔ながらのものだった。
叔母は、奥座敷と言われた有馬にささやかなマンションを購入し、一人暮らしをしている。
今日、私がこのトンネル電車に乗ったのは、叔母に会いにいくためだった。
尚美が見せた特上の笑顔が、迷うことなどなく家に帰るつもりだった私の行き先を変更させてしまったのだ。
――彼ってユニークねえ。久し振りに笑ったわ。
本屋のレジでつなきと別れた後、にこにこしながらそう感想を洩らした尚美の顔がまた思い出される。
自分がほめられたわけでもないのに、私まで上機嫌にさせられていたのは、もちろん尚美の笑顔のせいじゃなかった。
――変てこなのよ、小さい時はレインジャー部隊に入るんだ、って言って川の上流で崖登りばかりやってた。いつも裸足でさ。
その変てこさをいとおしむように、私は少年時代の彼のことを話したのだった。
無防備だった。私は先に持っていた赤い箱をひけらかしてみせたようなものだ。目の前で、二人が親しくなっていき自分を疎外していく現場から解放されたことで、何もかもが元通り修復されたような錯覚を起こしていた。つまり、彼と私だけが「知り合い」で、尚美はあいかわらずつなきに会うことなどない、ただの私の友人で……。
――彼ってミヤコの特別な男なの?
うつむきがちに聞いてきたことが、彼女の心配の現れであることなど、少し冷静になってみればすぐにわかることだった。なのに、尚美の言葉はスカッシュのボールのように私の胸の中をあたりかまわず跳ね返りつづけていて、他のことを斟酌する余裕がなかったのだ。
――特別?……まさか。
やっと言えたのは驚きだけだった。
――だって、ずうっと長いこと知り合いなんでしょ?
――知り合いだ、っていうだけのことよ。だって、わかるでしょ?特別な男なんだったら、とっくの昔になんとかなってるわよ。
なんだかむきになっていた。
好きでいながらどうにも近づけないで十年以上がたっている、などという事実は、尚美の前ではひどくかっこうわるいことのように感じられた。
――ふうん。……でも、あたし、ああいうタイプ、初めてやわ。
さっきから同じ感想ばかりが洩れるのは、それがよほど尚美に印象を刻んだからに違いない。
――どうして好きにならなかったの?
さらにまじめに尚美は尋ねたが、私は笑い出すしか、その問いから逃れる方法を持たない。
――尚美は何でも大将なんだからー。自分が好きだからみんなも好きだ、なんて理論、自分がピアスしたらみんなもすべき、ってのと同じよ。暴君ネロの世界だよ。
しかし尚美は笑わなかった。駅へと向かう地下街の人ごみの中で、めずらしく尚美は黙って歩いた。そして、駅の改札を右と左に別れる瞬間に、私に尋ねた。
――じゃあ、あたし、彼とつきあってもかまわないわけよね?
まるで示してみせた定期券で許可を乞うような、そんな言い方だった。しかし私に、それに答える権利などない。
――かまう、かまわない、なんて、……あたしの持ち物じゃあるまいし。
言い淀んだ私を、尚美は正面から凝視した。頭の悪い女じゃない。尚美は私の言葉が真実かどうか、瞬きもしないその大きな目で、探っているようだった。
そして突然に、尚美の表情がほぐれた。
――よかったあ。……ミヤコとは敵になりたくないもんね。だって、そんなに長いつきあいなんだもの、きっとミヤコ、どこかで彼のこと好きなのかと思っちゃった。
アハハ、と笑いながら、私は気持ちが萎えていくのを感じた。救いようのないアマノジャク。好きなんでしょと言われた時は好きじゃない、それじゃああたしがもらうと言われれば取っちゃ駄目。尚美の反対、反対にまわろうとする自分の軌道を自覚しながら、やはり私はがっかりしていた。
――あたし、がんばってみる。
協力してね、と私の肩を大袈裟に揺すぶっていく尚美の晴れやかな顔に、待って、やっぱり駄目よ、と制止をかけようとする未練がましさは、しかし私から飛び出してはいかない。
これで決定してしまった。私の領分、尚美の領分。こんなことで。十数年来の思いが、あっというまにさらわれていってしまった。
じゃね、と手を上げ、さっそうとピアスを揺らせていく尚美の横顔を、私はその場で見送った。自分がひどくみじめに見えた。
(後略)

『サイレント・ラヴ』(新潮文庫)新潮社 76〜79P

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