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兵庫ゆかりの文学

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湯川 秀樹

ゆかわ ひでき湯川 秀樹

  • 明治40~昭和56(1907~1981)
  • ジャンル: 理論物理学者
  • 出身:東京都麻布市

作品名

旅人

概要

この年――昭和八年の夏から、私ども一家は苦楽園に新しく建った家に住むことになった。この家が、私にとって忘れることのできない、思い出の家となったのである。
苦楽園といっても、今はその名を知っている人は少ないであろう。大正のある時期には、一時、阪神間の高台にある別荘地、避暑地として、繁盛したことがあった。私どもが移り住んだころには、もうさびれていた。その代り、昔日の隆盛をしのばせる、廃墟の趣きがあった。
阪急電車の夙川で乗りかえ、支線の苦楽園口で降りる。当時のバスで十五分ぐらい――松林とたんぼの中を走ってゆくと、途中から坂道になる。六甲連山の東端に近い丘の中腹に、ちらほらと家が見える。それが苦楽園である。
前の年の夏じゅう、私たちは苦楽園に、一軒、家を借りて住んだ。養父の健康のためでもあったし、また養母が大阪の家を開け放すと、煤煙が容赦なく入ってくるのをきらったためでもあった。私たちにとっても、それは有難いことであった。南に向いた山の中腹で、空気が乾燥している上に、思ったより涼しかった。養父も大変気に入ったらしかった。バスの終点近くに土地が空いていたので、それへ家を建てようと言いだした。
新しい家は、見晴しが素晴しかった。心臓病で身体をあまり動かせない養父は、一日じゅう、南側の窓に近いところにすわって、遠くに見える海をながめていた。
夕食後のひとときを、私たちは窓ぎわにならんで、遠くに点々とともって行く、西宮や尼崎の灯、走って行く電車のあかりを、あきずにながめたものである。
私は苦楽園から、京都大学と大阪大学へかわるがわる出向いていた。その間も、私の研究はつづいた。しかし、はかばかしい進展は示さない。後になって考えて見ると、このころ私の頭の中には、中間子論の芽となるようなアイディアが、何度かひらめいたようだ。しかし、それは、暗やみを瞬間的にてらして、後はまた元の暗やみにもどってしまう、稲妻のようなものであった。このひらめきを持続させ、成長させるに必要な何物かが、私の頭の中で、まだ熟していなかったのであろう。
日曜日などには、私は苦楽園のあたりを散歩した。妻は赤ん坊の世話に忙しく、家にひきこもりがちであった。家の前には桜の並木がつづいていた。家から西南の方へ降りてゆくと、赤松の林の中に池がある。赤いれんが建ての古風な洋館が見える。苦楽園ホテルである。かつては、冷泉をわかして、避暑客をひきつけたらしい。文人墨客が、ここに足をとどめた時代もあったらしい。私がそのあたりをさまよったころには、さびれきっていた。れんがの上に、つたかずらが生い茂って、人がいるかいないかわからないくらいであった。
家から東北の方に向って坂を上ってゆくと、木立はまばらになり、白い岩はだが露出している。ながめはますます広くなってくる。丘を上りきった所に、大きな池がある。真青な水をたたえて、静まりかえっている。周囲の白い岩山との対照が美しい。
池の向うに、石造の建物が一つぽつんとある。円柱形の洋館である。一見、西洋の古城のような印象を受ける。その影が、池にはっきりとうつっている。私は小学生時代に愛読した、グリムの童話の世界にきたような思いであった。あの円柱形の洋館には、魔女が住んでいる。誘拐された王女が、あの中で眠っている。私はこんなことを空想して見たりした。
円柱形の建物に近づいて見ると、入口のとびらもなくなっている。人の住んでいる気配はない。中には、ハイキングの人たちが残していった弁当ガラが、散らばっているだけである。この洋館は、ホテルにするつもりで建てられたらしい。それが、とうとう完成せずに終ったもののようだ。
あたりには人影もない。私は二階に上がって、しばらく、このエキゾチックなふんいきを楽しんだ。
五月になると、家のあたりは、満開のつつじで美しかった。十月には赤松の林の中で、松たけがとれたりした。――
苦楽園の散歩は楽しかったが、やはり私の頭の中に、新しい着想を呼び起してはくれなかった。
そうこうする中に、昭和九年となった。理学部の新館ができ上った。四月から、この三階建ての堂々たる建物の中へひきうつることになった。建物の前は、すぐ道路である。梅田の貨物駅へ向う、交通のはげしい道である。トラックがひっきりなしに往来する。ここにいると、何か仕事をせずにおられないような気持になる。このころの私は、後から追っかけられるような、気持であった。自分の研究に目鼻がつかないことに、じりじりしていた。
私は京大をやめて、阪大の専任講師になった。そして新学期から、私のあまり得意でない電磁気学の講義を、始めることになった。しかし私の頭の中は、相変らず核力の問題で一杯であった。
このころのある日、私は新着雑誌の中に、フェルミのベーター崩壊の理論に関する論文を発見した。
(後略)

『旅人 ある物理学者の回想』朝日新聞社 P274?277

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