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兵庫ゆかりの作家

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せいた たんそう清田 儋叟

  • 享保4~天明5
  • ジャンル: 儒学者

PROFILE

【兵庫県との関係】
 母が明石藩士川村儀助の長女であったため、幼少期は多く明石の母の実家で過ごした。19歳の頃、明石藩儒梁田蛻巌に親炙し、多大な影響を受ける。
 源義経の鵯越を題材とした「鉄拐山の歌」(『孔雀楼文集』巻1)、加古川をうたった「麑川に魚を打つの歌」(同巻1)、「播に赴く口占、二兄に上る」「従兄君履と同に石宝殿に遊ぶ〈播磨に在り〉」(巻2)などの兵庫県の史跡に因んだ詩があり、また有馬行を記した「馬山遊草の後に書す」(巻5)、明石の田氏から譲られた硯に題した「錦帯硯に題す」(巻5)、「一谷の戦を記す」(巻7)、「大森森修の事を記す」(巻7)などの文(漢文体)も残されている。
【略歴】
 福井藩儒伊藤龍洲と明石藩士川村儀助の長女である母との間に三男として生まれる。長兄は伊藤錦里、次兄は江村北海。字ははじめ元*(「おうへん」に「炎」)、後に君錦。通称は文興、また文平。号は*(「にんべん」に「?」)叟のほか、千秋斎、孔雀楼。由良南舟に筆跡を学び、三輪安立に素読を受け、若い頃は古文辞学を修めるが、後に反古文辞派の明・袁宏道、鍾惺、譚元春などを学んだ。また文は古文を尊び、欧陽修や『史記』を重んじた。24歳の時に、父の任地である福井で病にかかり、足が不自由となる。寛延元年(1748)福井藩儒となるが、平生は京都に住み、兄の錦里と交代で福井および江戸の藩邸に出仕した。当時の京都文壇で活躍していた文人たち、龍草廬、芥川丹邱、武田梅龍、永富独嘯庵らと広く交流した。天明5年3月23日没。
 宝暦8年(1758)8月25日、皆川淇園、富士川成章兄弟と一晩で各自五言律詩百首を詠んだことで名高い(『三先生一夜百詠』寛政7年(1795)刊)。また、中国白話小説に精通し、すぐれた批評や施訓などの業績を残した。

逝去地
京都
兵庫県との関係
居住 明石

代表作品

作品名 刊行年 和暦 備考
照世盃 1765 中国白話小説に刻と評を加えたもの。
藝苑談 1768 日本詩話叢書・日本儒林叢書
孔雀楼筆記 1768 収録:日本古典文学大系『近世随想集』(岩波書店)
藝苑譜 1769 日本詩話叢書
孔雀楼文集 1774
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