じりゅう二柳
- 享保8~享和3
- ジャンル: 俳人
- 出身:加賀国山中
PROFILE
【兵庫県との関係】
宝暦9年(1759)12月、京都からの行脚の途次、兵庫・明石を経過して、但馬国生野に赴く。その地で越年し、同地の俳人文狸の撰集『おちば籠』に序文を書いた。その年の暮れまで滞在し、その後近江八幡に向かった。
【略歴】
初号、桃左・桃居。別号に三四坊・不二庵・売冠子・七彩堂・翁堂・白岳道人など。はじめ桃妖に俳諧のてほどきを受け、のち乙由(麦林)、その没後希因につく。
寛延3年(1750)7月、師の希因の死後、生地の加賀国山中をあとにした二柳は、全国各地の漂泊の旅に出る。京をはじめ、東は尾張、西は備後、四国は阿波・讃岐、また南は紀州熊野にまで足をのばしている。この漂泊は、明和8年(1771)ごろに大坂に定住するまで続けられた。この間、宝暦9年には敦賀の琴路のもとで素龍筆の『奥の細道』(西村本)を披見、「細道伝来記」をしるす。
大坂に来てからは、遊行寺の芭蕉塚を再建し、芭蕉顕彰の行事に力を注ぐ。また蕪村・几董、大坂の大魯・大江丸、金沢から上洛していた闌更ら、当時一流の俳人らと交際を持ち、この時期の芭蕉復興運動の一翼をになう存在となる。寛政5年(1793)には遊行寺で芭蕉百回忌を営む。さらに、寛政10年9月には、二条家より俳諧宗匠の免許を許され、長命を保って、上方俳壇の重鎮となった。墓所は大坂の梅旧院。
――やどり木の葉はちる筈ぞ松の友――(『おちば籠』)
(生野での留別吟)
- 逝去地
- 大坂
- 兵庫県との関係
- 滞在 但馬国生野
- もっと詳しく知るために
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不二※(くさかんむりに合に升。「あん」)二柳(収録:『大阪と蕉門』) 西山隆二 1954 昭和29年 西山隆二遺稿集刊行会
二柳の俳論(収録:『近世大阪芸文叢談』) 田中道雄 1973 昭和48年 大阪芸文会
代表作品
作品名 | 刊行年 | 版元 | 備考 |
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俳諧氷餅集(俳諧撰集) | 1774 | 収録:『蕪村全集8』 | |
俳諧直指伝(俳諧論集) | 1775 | ||
俳諧四季部類(季寄せ) | 1780 | 収録:『近世後期歳時記本文集成並びに総合索引』(勉誠社) |