伊勢物語
- 巻号:八十七段
- 作者:未詳
内容
むかし、をとこ、津の国、むばらの郡、芦屋の里にしるよしして、いきて住みけり。むかしの歌に
芦の屋のなだの塩焼いとまなみ黄楊(つげ)の小櫛もささず来にけり
とよみけるぞ、この里をよみける。ここをなむ芦屋の灘とはいひける。このをとこなま宮づかへしければ、それをたよりにて、ゑふの佐(すけ)どもあつまり来にけり。このをとこのこのかみも衞(ゑ)府の督(かみ)なりけり。その家の前の海のほとりに遊びありきて、「いざ、この山のかみにありといふ布引の滝見にのぼらん」といひて、のぼりて見るに、その滝、物よりこと也。長さ二十丈、広さ五丈ばかりなる石のおもて、白絹に岩をつゝめらんやうになむありける。さる滝のかみに、わらふだの大きさして、さし出でたる石あり。その石のうへに走りかかる水は、小柑子(せうこうじ)、栗の大きさにてこぼれ落つ。そこなる人みな滝の歌よます。かの衞府の督まづよむ。
わが世をばけふかあすかと待つかひの涙の滝といづれ高けん
あるじ、次によむ。
ぬき乱る人こそあるらし白玉のまなくも散るか袖のせばきに
とよめりければ、かたへの人、笑ふことにや有けん、この歌にめでてやみにけり。帰りくる道とほくて、うせにし宮内卿もちよしが家の前来るに、日暮れぬ。やどりの方を見やれば、海人の漁火(いさりび)多く見ゆるに、かのあるじのをとこよむ。
晴るる夜の星か河辺の螢かもわが住むかたの海人のたく火か
とよみて、家にかへりきぬ。その夜、南の風吹きて、浪いと高し。つとめて、その家の女(め)の子(こ)ども出でて、浮海松(うきみる)の浪によせられたる拾ひて、いへの内に持て来ぬ。女がたより、その海松を高坏(たかつき)にもりて、柏をおほいて出したる、柏に書けり。
渡(わた)つ海(み)のかざしにさすといはふ藻も君がためにはをしまざりけり
田舎人の歌にては、あまれりや、足らずや。
場所
芦屋の里 (あしやのさと)
現在地
芦屋市周辺