県美プレミアム 館外作品を中心とした小企画展

谷中 安規 略年譜

0歳 1897年1月18日、奈良県磯城郡初瀬町(現・桜井市初瀬)に父・福松、母・登和の長男として生まれる。初瀬は真言宗豊山派総本山・長谷寺の門前町。
5歳 父・福松が京都西陣で染物工場の経営を始める。
6歳 母・登和が京都にて死去。
7歳 父・福松が朝鮮へ渡り、京城(現・ソウル)で洋品雑貨店を開業する。
谷中は新潟県刈羽郡鯨波村(現・柏崎市鯨波)の親戚宅へ預けられ、村立鯨波尋常小学校に入学する。
13歳 村立鯨波尋常小学校を卒業後、父に連れられ朝鮮に渡る。
18歳 単身上京し、東京府小石川区大塚坂下町(現・文京区大塚)護国寺の真言宗豊山派付属の市立豊山中学校に入学、寄宿生活を送る。
友人らと短歌の回覧雑誌を出す。
20歳 文芸雑誌や東京日日新聞などに短歌の投稿を重ね、評価される。
21歳 豊山中学校を4年で中退。木更津の正福寺(長谷寺の末寺)の小僧となるが、1年ほどでやめる。
25歳 永瀬義郎の『版画を作る人へ』が刊行される。谷中は同書をもとに独学で木版画制作を始める。
27歳 第一書房に半年間ほど居候的社員となり、社主・長谷川巳之吉から日夏耿之助、堀口大學、佐藤春夫。与謝野晶子らを紹介される。
29歳 友人らと文芸同人誌『莽魯聞葉』を刊行。
日夏耿之介が関わっていた雑誌『奢灞都』(石川道雄編)に挿絵が掲載される。
日夏の紹介で永瀬義郎のアトリエを訪れ、描きためた多数の素描や版画を見せる。
永瀬にそれらを預けたまま、いったん朝鮮・京城へ引きあげる。京城滞在中は土蔵に籠り、素描や版画の制作に没頭した。
勘当同然の状態で朝鮮から戻り、千葉県市原郡五井町(現・市原市五井)の龍善院住職となっていた同窓生の榎本憲阿を頼って居候する。
30歳 憲阿の妹への恋心を踊りに託して寺の本堂で毎夜踊り狂うが失恋し、龍善院を去る。
再び永瀬義郎を訪れ、以後たびたび出入りする。
31歳 第8回日本創作版画展に《街の詩》《私の物語の挿圖》を出品、初入選。前川千帆、恩地孝四郎、平塚運一らを知る。
佐藤春夫が『クラク(苦楽)』に連載した翻訳小説「好逑伝」の挿絵を担当する。
第2回デッサン社展覧会に《画稿三葉》を出品。
32歳 第9回日本創作版画展に《犬》《少年詩集》を出品。
34歳 第6回国画会展に《笑話集》を出品。
第1回新興版画展に《夜》《花》《怪》《少年詩集》を出品し受賞。
第1回日本版画協会展に《戯呂馬一》《戯呂馬二》《戯呂馬三》《戯呂馬四》《戯呂馬五》を出品。
35歳 前川千帆の紹介で料治熊太宅を訪れ、『白と黒』及び『版藝術』の同人となる。
以後、両誌を主な作品発表の場とする。
第7回国画会展に《幻想五圖》《研究所》を出品。
日本版画協会の会員になる。第2回日本版画協会展に《臺所》《書斎》《黒い夜》を出品。
36歳 第8回国画会展に《街の本》を出品。
第5回童土社創作版画展に恩地孝四郎、棟方志功らの作品とともに特別陳列される。
第3回日本版画協会展(兼於巴里日本現代版画展準備展)に《浅草寺》《城の印象》《花花》《作品A》《作品B》を出品。
10月の半月ほど料治家の留守番を任され、この間に『白と黒』第41号(谷中安規特集号)を編集する。
37歳 内田百閒の『王様の背中』に多数の挿絵を提供する。以後、百閒との交流が続き、多くの装幀・挿絵を手掛ける。
内田百閒が雑誌『心境』に「風船画伯」と題する一文を寄稿し、「風船画伯」が谷中のあだ名として広まる。
38歳 第4回日本版画協会展(兼渡米日本現代版画準備展覧会)に《梟》《少年畫帖》《即興第一》《即興第二》《即興第三》《怪》《馬》を出品。
佐藤春夫の『絵本 FOU』に多数の挿絵を提供する。
39歳 第5回日本版画協会展に《満月》《歌づくし》《先生像》《小品數種》《傀儡吟》を出品。
内田百閒の新聞連載「居候匆々」の挿絵を担当。

1936年頃の安規
40歳 内田百閒の紹介で小山書店を知り、以後1943年まで同書店の出版物の装幀・挿絵を多く手掛ける。
第6回日本版画協会展に《挿繪作品》《作品》を出品。
父・福松が死去。
41歳 第7回日本版画協会展に《習作》を出品。
42歳 第14回国画会展に《童子騎虎》を出品。
第8回日本版画協会展に《龍の夢》《無題》を出品。
第1回挿絵倶楽部展に出品。
この頃、関野準一郎にエッチングの教えを乞い、手ほどきを受ける。
43歳 第15回国画会展に《六辨集より》を出品。
44歳 滝野川区中里町(現・北区中里)本山ハウスに移る。以後、戦災で焼け出されるまで同所に住む。
この頃から版画の制作、発表は僅かとなり、書籍や雑誌の装幀・挿絵制作を主として活動する。
47歳 第13回日本版画協会展に《無題1》《無題2》《無題3》を出品する。
戦時中は隣組の組長なども務め、防空演習にも熱心であったらしい。
48歳 4月の空襲で焼け出され、本山ハウスの向かいに掘立小屋を建てて住む。近くの空き地に南京、さつまいもなどを栽培する。
また、本山ハウスの住人だった佐瀬喜代が食料・衣服などを差し入れ、谷中が亡くなるまで献身的に面倒を見ていた。
49歳 3月、野田宇太郎から『藝林間歩』への寄稿を依頼される。(遺稿「かをるぶみ」)
6月頃、栄養失調のため足に浮腫が出る。滝野川区役所に生活扶助を申請し、認められる。
8月中旬頃、病状が急激に悪化する。
9月9日早朝、掘立小屋で死亡している谷中を佐瀬喜代が発見、翌日葬儀がおこなわれる。
9月11日、佐瀬が谷中遺品の手紙類を頼りに数箇所に死亡通知を発送。
9月20日、西川満の記事「風船画伯の死」が東京新聞に掲載され、谷中の死が公に広く知られることとなる。

女の顔(星神) 1931(昭和6)年頃
木版・紙 当館蔵

奇想の版画家 谷中安規展 蔵出し!M氏コレクション

2015年11月21日(土)~2016年3月6日(日)

開催概要


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