展覧会のみどころ

《春V》
1907-10年頃、油彩・カンヴァス スイス、個人蔵

世紀末芸術を代表する
スイスの巨匠・ホドラーの
全容を紹介

スイスの「国民画家」として絶大な人気を集めたホドラー。ホドラーの力強く壮大なヴィジョンは、19世紀末の象徴主義を語るうえで、重要な地位を占めています。

《春V》
1907-10年頃、油彩・カンヴァス スイス、個人蔵

  • 日本では40年ぶり。
    日本初公開を含む最大規模の回顧展

    日本で40年ぶりに開催される本展は、《昼III》など、日本初公開となる大作が出品される過去最大規模の回顧展となります。

  • 「リズム」の絵画へ
    ─死から生への目覚め

    ホドラーの芸術を「リズム」という視点から読み解きます。彼は若くして、両親や兄弟を失くしました。しかし、20世紀への転換期をさかいに、ホドラーは「死」よりも「生」のイメージ、とくに人々の身体が織りなす「リズム」の表現に向かいます。

  • スイス・アルプスの自然―想像力の源泉

    身近なスイス・アルプスの自然は、つねにホドラーの想像力を刺激する対象でした。四季や天候に応じてさまざまな表情を見せるアルプスの自然に秩序やパターンを見いだし、それらを抽象化することで、現実の景色でありながらもファンタジックな、独自の風景画をつくり上げていきました。

光のほうへ―初期の風景画

《山小屋とアイガー山、メンヒ山、ユングフラウ山》1872年
Kunstmuseum Bern, Legat Walter und Hedwig Scherz-Kernen, Muri

《山小屋とアイガー山、メンヒ山、ユングフラウ山》1872年
Kunstmuseum Bern, Legat Walter und Hedwig Scherz-Kernen, Muri

1853年にスイスのベルンに生まれたホドラーは、7歳で父を亡くしたのち、母の再婚相手だった画家のもとで、幼くして絵画の手ほどきを受けました。14歳でトゥーンの風景画家フェルディナント・ゾンマーに弟子入りすると、1871年からはジュネーヴでバルテレミー・メンに師事し、フランスの写実主義やバルビゾン派の絵画に傾倒します。こうして風景画家として出発したホドラーは、19世紀のスイスで慣習的だった風景表現からはすぐに脱し、新たに戸外の光のもとで、みずからの眼に映る世界を描くようになります。1878年にはスペインなどを旅し、故郷スイスでは感じることのできない地中海世界の強い光も経験します。さらに1880年代以降の作品には、後年のホドラー自身の絵画を予告する、湖面に反射/反映する木々などのイメージが現われてきます。

暗鬱な世紀末?―象徴主義者の自覚

《傷ついた若者》 1886年 ベルン美術館 Kunstmuseum Bern, Geschenk des Künstlers

《傷ついた若者》 1886年 ベルン美術館 Kunstmuseum Bern, Geschenk des Künstlers

若きホドラーの日々には、暗い影がつきまとっていました。少年期から青年期のホドラーの傍らには、つねに「死」があったからです。1885年までに彼は、父ばかりでなく、母と兄弟のすべてを結核のため失っています。ジュネーヴの詩人ルイ・デュショーサルとの出会いなどを機に、1880年代半ばから、眼に見える世界よりも、眼には見えない人間の内面や精神活動を重視する象徴主義の思想へと急速に接近します。その結果、1880年代のホドラーの絵画には、「憂鬱」や「内省」、そして「死」のイメージがくりかえし描かれることになります。

リズムの絵画へ―踊る身体、動く感情

  • ≪恍惚とした女≫ 1911年 ジュネーヴ美術・歴史博物館 
cMusée d’ art et d’ histoire, Ville de Genève  
c Photo : Bettina Jacot-Descombes

    ≪恍惚とした女≫ 1911年 ジュネーヴ美術・歴史博物館
    ©Musée d’ art et d’ histoire, Ville de Genève
    © Photo : Bettina Jacot-Descombes

  • 《感情V》 1905年 ベルン州美術コレクション 
cKanton Bern (Prolith AG, Bern)

    《感情V》 1905年 ベルン州美術コレクション
    ©Kanton Bern (Prolith AG, Bern)

  • 《オイリュトミー》 1895年 ベルン美術館 
Kunstmuseum Bern, Staat Bern

    《オイリュトミー》 1895年 ベルン美術館
    Kunstmuseum Bern, Staat Bern

人間の内面や心理に惹かれ始めたホドラーは、単に暗鬱した世界に閉じこもったのではありませんでした。「良きリズム」という意味をもつ《オイリュトミー》(1895 年)以降、ホドラーは、身体の動きによって表わされる人間の感情、そして運動する身体が織りなす「リズム」の表現に向かいます。このようなホドラーの関心は、スイスの音楽教育家エミール・ジャック=ダルクローズによる「リトミック」など、当時生まれつつあった前衛的な舞踏の思想とも呼応するものでした。ホドラーはまた、自然の世界にはさまざまな秩序が隠されており、とりわけ類似する形態の反復や、シンメトリーをなす構造がいたるところに存在すると考えていました。彼はそれを「パラレリズム」(平行主義)と呼び、絵画のシステムとして応用していったのです。

変幻するアルプス―風景の抽象化

  • 《シェーブルから見たレマン湖》 1905年頃 ジュネーヴ美術・歴史博物館 
cMusée d’ art et d’ histoire, Ville de Genève cPhoto: Yves Siza

    《シェーブルから見たレマン湖》
    1905年頃 ジュネーヴ美術・歴史博物館
    ©Musée d’ art et d’ histoire, Ville de Genève ©Photo: Yves Siza

  • 《ミューレンから見たユングフラウ山》 1911年 ベルン美術館 
Depositum der Gottfried Keller-Stiftung/Kunstmuseum Bern

    《ミューレンから見たユングフラウ山》 1911年 ベルン美術館
    Depositum der Gottfried Keller-Stiftung/Kunstmuseum Bern

世界の中にリズムや構造を見出そうとしたホドラーは、スイス・アルプスの自然からも、絶えず想像力を刺激されていました。「もっとも強い幻想は、無尽蔵の啓発の源泉たる自然によって養われる」―彼はそう語っています。そして1900 年代以降、眼に映る風景を、次第に抽象化していきます。そこでは、山々の輪郭、湖面に映るシルエット、あるいは雲などが、一種の装飾的な図柄を構成する造形要素のようにして扱われます。たとえば、ホドラーがくりかえし描いたユングフラウ山やシュトックホルン山群、レマン湖といったアルプスの風景は、もはや再現的であることを超えて、抽象化された形態と色彩のパターンとして表わされるのです。

リズムの空間化―壁画装飾プロジェクト

《木を伐る人》 1910年 ベルン、モビリアール美術コレクション

《木を伐る人》 1910年 ベルン、モビリアール美術コレクション

ホドラーは、19 世紀後半以降のヨーロッパに生じた装飾芸術運動の高まりの中にいました。チューリヒのスイス国立博物館のために制作したフレスコ壁画《マリニャーノの退却》(1897-1900 年)、イェーナ大学を飾った《独立戦争に向かうドイツ学徒の旅立ち》(1907/08年)、ハノーファー市庁舎の会議室に据えられた《全員一致》(1911-13 年)、そして再びスイス国立博物館の壁画として構想された未完の《ムルテンの戦い》と、ホドラーは歴史場面を主題とするモニュメンタルな室内装飾を生涯にわたって手がけました。これらの装飾プロジェクトにおいても、ホドラーは「パラレリズム」の方法によって人物の形態を反復し、連鎖させることで、動的な画面を構成しようとしました。それは絵画という平面において生じる視覚的なリズムを、いわば室内の「空間」にまで押し広げるような試みでした。それらの装飾プロジェク トを、習作とともに見ていきます。

無限へのまなざし―終わらないリズムの夢

装飾画家としてのホドラーは、1913 年から1917 年にかけて、チューリヒ美術館にある階段間のための壁画を制作します。最終的に5人の女性像によって構成されたその壁画は、画家自身によって《無限へのまなざし》と名づけられました。そこには、集団舞踏を思わせるイメージが描かれています。互いに類似する身ぶりをした女性たちが、水平方向に連鎖していくのです。それはおそらく、晩年を迎えつつあった画家が見た、終わらない「リズム」の夢でした。ホドラーの生涯におけるハイライトとなったその作品を、習作によって概観します。

《「無限へのまなざし」の単独像習作》 1913-1915年 
ジュネーヴ美術・歴史博物館 
©Musée d’ art et d’ histoire, Ville de Genève
©Photo: Bettina Jacot-Descombes

《「無限へのまなざし」の単独像習作》 1913-1915年
ジュネーヴ美術・歴史博物館
cMusée d’ art et d’ histoire, Ville de Genève
cPhoto: Bettina Jacot-Descombes

終わりのとき―晩年の作品群

《白鳥のいるレマン湖とモンブラン》 1918年 ジュネーヴ美術・歴史博物館 
cMusée d’ art et d’ histoire, Ville de Genève cPhoto: Yves Siza

《白鳥のいるレマン湖とモンブラン》 1918年 ジュネーヴ美術・歴史博物館
©Musée d’ art et d’ histoire, Ville de Genève ©Photo: Yves Siza

折しも《無限へのまなざし》を制作していた頃、ホドラーは癌におかされた20 歳年下の恋人ヴァランティーヌ・ゴデ=ダレルの死を見つめていました。彼は、刻々と衰えていく病床のゴデ=ダレルの姿を素描 によって記録し、ついには死した彼女を、まるでキリストの遺骸のごとく描きました。そして、そのゴデ= ダレルの死から3 年後の1918 年、ホドラー自身も彼女を追うように、ジュネーヴで没します。けれども、 恋人の死に立ち会った晩年のホドラーは、決して悲哀に沈んだのではありません。彼はそれ以後も、アルプスの風景と変わらず向き合いながら、しかしそれらを、かつてよりもいっそう抽象化した色面と表現主義的な色合いで描きました。