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藤田嗣治 × 国吉康雄」 二人のパラレル・キャリア ? 百年目の再会。The Parallel Careers of Foujita and Yasuo Kuniyoshi: A Centenial Reunion2025年6月14日[土] - 8月17日[日]
藤田嗣治 × 国吉康雄」 二人のパラレル・キャリア ? 百年目の再会。The Parallel Careers of Foujita and Yasuo Kuniyoshi: A Centenial Reunion 2025年6月14日[土] - 8月17日[日]
展覧会構成
1
1910年代後半から20年代初頭:日本人「移住者」としてのはじまり
1906年、16歳で労働移民として渡米した国吉は、教師の勧めで画家を志し、ニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグで研鑽を積みます。東京美術学校卒業後の藤田は1913年26歳で渡仏。第一次大戦下も欧州にとどまり、戦後、パリの諸サロンで入選を重ねます。

  • 藤田嗣治《二人の少女》1918年
    軽井沢安東美術館
    ©Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2025 E5975

  • 国吉康雄《夢》1922年
    石橋財団アーティゾン美術館
2
1922年から24年:異国での成功
乳白色の下地による裸婦のスタイルを確立した藤田は、20年代前半のパリの諸サロンに代表作《五人の裸婦》などを発表します。ニューヨークの国吉は1922年からダニエル画廊で毎年個展を開き、複数の展覧会に参加を続け、東洋的と評された作風で注目を集めました。

  • 藤田嗣治《タピスリーの裸婦》1923年
    京都国立近代美術館
    ©Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2025 E5975

  • 国吉康雄《幸福の島》1924年
    東京都現代美術館
3
1925年と1928年:藤田のパリ絶頂期と国吉の渡欧
今から百年前の1925年、パリではアール・デコ博覧会が開かれ、日本からも多くの視察がありました。国吉は1925年と28年に当時の妻で画家のキャサリン・シュミットとパリに滞在します。ブルガリア出身で、ニューヨークとパリを往来するジュール・パスキンは藤田、国吉の共通の親しい友人でした。

  • 藤田嗣治《舞踏会の前》1925年
    公益財団法人大原芸術財団 大原美術館
    ©Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2025 E5975

  • 国吉康雄《化粧》1927年 福武コレクション
4
1929/1930/1931年:ニューヨークでの交流とそれぞれの日本帰国
藤田は1929年に初めて母国に一時帰国を果たしました。いったんパリに戻り、1930年秋、ニューヨークでの個展のために藤田は渡米します。ここでふたりは直接交流する機会を得ました。その後、藤田からの紹介状を手に、1931年、国吉は24年ぶりに母国に向かいます。

  • 藤田嗣治《自画像》1929年
    東京国立近代美術館
    ©Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2025 E5975

  • 国吉康雄《サーカスの女玉乗り》
    1930年 個人蔵
5
1930年代:軍国主義化する母国の内外で
30年代初頭にパリを離れ、中南米経由で33年秋に母国に戻って定住した藤田はフランス、日本・アジアの風俗など新たな画題に取り組みました。国吉は順調な制作を続け、受賞を重ねました。母校で教職につき、さらに芸術家権利向上・団結を目指す活動にも力を注ぎます。

  • 藤田嗣治《猫のいる静物》1939-40年
    石橋財団アーティゾン美術館
    ©Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2025 E5975

  • 国吉康雄
    《逆さのテーブルとマスク》1940年
    福武コレクション
6
1941年から45年:日米開戦下の、運命の二人
1941年12月8日の日米開戦が、親しかった在外邦人画家の運命を(わか)ちます。藤田は母国で、軍部からの作戦記録画の注文に力を注ぎます。国吉のアメリカでの立場は敵性外国人となり、行動制限を受けるなか、軍国主義を批判する活動や制作に取り組みました。

  • 藤田嗣治《ソロモン海域に於ける米兵の末路》1943年
    東京国立近代美術館(アメリカ合衆国より無期限貸与)
    ©Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2025 E5975

  • 国吉康雄
    《誰かが私のポスターを破った》
    1943年 個人蔵
7
1946年から48年:戦後の再生と異夢
戦後、藤田は「戦争責任」をささやかれるなか、裸婦や幻想的な情景の制作を再開しつつ、フランス帰還の可能性を模索します。国吉は制作と美術家組合の活動に邁進。1948年ホイットニー美術館で個展の開催を迎えます。同館では初の現存作家の個展という栄誉でした。

  • 藤田嗣治《私の夢》1947年
    新潟県立近代美術館・万代島美術館
    ©Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2025 E5975

  • 国吉康雄《祭りは終わった》1947年
    岡山県立美術館
8
1949年@ニューヨーク:すれ違う二人
藤田は1949年3月、離日・渡米を果たし、ニューヨークに約10か月滞在。現地では恵まれた画材や美術館の西欧名画と再会し、11月にはマシアス・コモール画廊で個展を実現します。国吉は藤田不在の個展会場を訪ねたようですが、この間、二人の再会はありません。

  • 藤田嗣治《美しいスペイン女》1949年
    豊田市美術館
    ©Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2025 E5975

  • 国吉康雄《カーニヴァル》1949年
    個人蔵
9
1950年から53年:藤田のフランス永住と国吉の死
1950年秋に体調を崩した国吉は、移民法改定を受けアメリカ国籍取得の手続き途上の1953年5月に亡くなりました。1950年初にパリに帰還し、55年にフランス国籍を取得して日本国籍を手放した藤田は、晩年カトリックに改宗。1968年に没し、欧州の土に還ります。

  • 藤田嗣治《二人の祈り》1952年
    名古屋市美術館
    ©Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2025 E5975

  • 国吉康雄《ミスターエース》1952年
    福武コレクション