藤田は、東京美術学校(現東京藝術大学)西洋画科を卒業した後の1913年に、憧れのパリの地を踏みました。しかし、翌年には第一次世界大戦が勃発。仕送りも途絶え苦しい生活の中で、日本で学んだことをあえて捨て、自分だけの表現を目指して、試行錯誤の日々を続けました。
試行錯誤の成果は、第一次世界大戦が終わって初めてのサロン・ドートンヌで、6点入選という結果となって現れます。乳白色の下地に流麗な線で描いた裸婦像で注目を集めた藤田は、数多くの異邦人画家が活躍した、後に「狂乱の時代」と呼ばれる1920代のパリで、画壇の寵児として、日本人では初めてといっていい大きな成功を手にしました。
1930年代の藤田は、アメリカから中南米、中国、そして日本と、各地を転々としながら制作を続けます。それにあわせるように、作風も大きな振幅を見せ、1920年代には見られなかった鮮烈な色彩で風俗的な主題を描く作品が現れます。
藤田の画業の中でひとつの頂点をなすのが、国家の要請で描いた戦争画です。ここでは、大きな問題をはらむ戦争画3点と、並行して描かれた作品を展示し、藤田の生涯を考える上で重要なファクター、戦争と国家、そして、それらと画家の関係を探るきっかけとします。
戦争画制作の責任を問う議論の数々に傷ついた藤田は、1949年に日本を離れ、ニューヨーク経由でパリに到着します。再会したフランスで、藤田は、傷を癒すかのような懐かしいパリの街並みや、愛らしい子供、流麗な線で描かれた優美な裸婦を頻繁に描くようになります。
カトリックの洗礼を受けた1959年以降、藤田は、それまでは余り描くことのなかった宗教画を描くようになります。西洋絵画の伝統に掉さしつつ、自身の内なる平和と世界の平和を同時に願った藤田晩年の制作を紹介します。