吉田博(1876~1950 福岡県出身)は、アジア・太平洋戦争の最中、相生市にある播磨造船所とその近辺で「銃後」の建造作業の様子、とくに動員勤労学徒の姿を描きました。その絵が、同造船所の後身であるJMUアムテックとIHI相生事業所に保管されていることが、近年、明らかになりました。そのほとんどを当館で預かりましたので、この度、お披露目の展覧会を開催します。
吉田は勤労学徒を送り出した学校にも絵を寄贈しており、その現存する4点と、播磨造船所と関係の深い旧・日本製鉄広畑製鉄所(姫路市)の絵2点もあわせて展示します。
また、造船所や製鉄所の絵のために吉田は綿密な下絵を多数描いていますので、その中から数十点を選んで紹介し、制作過程を辿ることができるようにします。
1907年創立の「播磨船渠」を出発とします。相生の町はこの造船所とともに発展してきました。造船所は、一時、世界有数の建造量を誇るまでになりました。現在は、造船部門を分社化したJMUアムテックとIHI相生事業所に引き継がれています。
総力戦のアジア・太平洋戦争では、1943年頃から壮年の男性が多数徴兵されたため、労働力の不足が深刻となりました。それを補うため、1944年には、中学校(現在の高校生にあたる)以上の生徒や学生が本格的に軍需産業や食料生産に動員されたのです。
1876(明治 9 )年 | 福岡県久留米市に、旧久留米藩士、上田束秀之の子として生まれる。 |
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1891(明治24)年 | 福岡県立修猷館の図画教師、吉田嘉三の養子となる。 |
1894(明治27)年 | 三宅克己の影響で水彩画を始める。 |
1899(明治32)年 ~ | 1891(明治34)年 初の渡米、渡欧。 |
1902(明治35)年 | 満谷国四郎らとともに太平洋画会を創立。 |
1903(明治36)年 ~ | 1906(明治39)年 2度目の渡米、渡欧。1904(明治37)年にはセントルイス万国博で銅牌受賞。 |
1907(明治40)年 | 東京府勧業博覧会で二等賞受賞。 |
1907(明治40)年 | 第1回文展で三等賞受賞。以後、文展、帝展で活躍。 |
1920(大正 9 )年 | 最初の木版画を出版。 |
1923(大正12)年 ~ | 1925(大正14)年 三度目の渡米、渡欧。 |
1936(昭和11)年 | 日本山岳画協会を創立。 |
1947(昭和22)年 | 太平洋画会会長。 |
1950(昭和25)年 | 東京で死去。 |