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生誕120年 安井仲治 ―僕の大切な写真 会期は2023年12月16日[土]?2024年2月12日[月・振替休日]
展示
構成
1
1920s: 仲治誕生

1903(明治36)年、大阪の豊かな商家に生まれた安井仲治。高等学校在学中に親からカメラを買い与えられた彼は、卒業後も家業の安井洋紙店に勤務しながら写真を続けた。10代末には関西の名門アマチュア写真団体、浪華写真倶楽部に入会を果たす。当時は芸術表現としての写真を追求する「芸術写真」の機運が高まっていた。「芸術写真」の実相はきわめて多様だが、その多くが情緒ある「絵画的」な写真表現を志向するもので、顔料でイメージを形作るピグメント印画法がしばしば用いられた。安井もピグメント印画の作品を多く手がけたが、初期の代表作である《猿廻しの図》は社会的な関心に裏打ちされたもので、穏当な「芸術写真」の枠組みを拡張するものとして注目を集めた。安井は20代前半にして同倶楽部の指導的立場となり、1927(昭和2)年の秋には倶楽部の実力者とともに銀鈴社を結成し、精力的に制作と発表を行った。


  • 《猿廻しの図》1925/2023 個人蔵

  • 《クレインノヒビキ》1923 個人蔵(兵庫県立美術館寄託)
2
1930s - 1: 都市への眼差し

1931(昭和6)年、ドイツからもたらされた展覧会が日本の写真界に衝撃を与えた。東京、大阪を巡回した「独逸国際移動写真展」である。この写真展が大きな契機となり、日本、とりわけ関西の写真界では、それまでの「芸術写真」からいわゆる「新興写真」と呼ばれるものに表現の主潮が移行していく。本章では、このように日本でモダニズム写真が隆盛した、1920年代末から1930年代前半頃の安井の作例を紹介する。他の同時代の写真家と同様に、安井も新興写真の開花に多大な影響を受け、新技法を取り入れた実験的作品に取り組んでいく。しかしその一方で、すでに時代遅れとなりつつあったブロムオイル印画への強い拘りも見せているのが興味深い。新興写真を単純に模倣するのではなく、作画のための一手段として消化し、安井は独自の写真表現を追求していった。ここで取り上げる作品は、安井にとってそのような換骨奪胎の時期の作例といえよう。


  • 《(凝視)》1931/2023 個人蔵

  • 《草》c. 1929 個人蔵(兵庫県立美術館寄託)
3
1930s - 2: 静物のある風景

日本の写真史における一つのピークである1930年代は、安井仲治という写真家にとっても様々な手法やスタイルが試みられ、代表作の数々が生まれた充実した時代であった。この章では、1930年代の作品の中でも新興写真やシュルレアリスムといった特定のジャンルや傾向には区分しがたい作品を取り上げる。とはいえ、それ故にと言うべきか、ここには自邸の窓ガラスに止まった蛾を写した作品[nos. 72-74]や医療実験の検体を写した《犬》[no. 96]のように、安井の代表作が並ぶ。1930年代に、安井は4人の子供たちを授かる一方で、弟妹を、さらに次男を相次いで亡くしている。こうした私生活における出来事がカメラを小さな生き物たちへと向けさせたのだろう。
安井は1932(昭和7)年に「半静物」の語をもって、撮影場所で静物を即興的に組み合わせて現実と超現実とのあわいを現出させる方法を語っており、この独自の手法はその後の安井の実践において重要なものとなっていく。


  • 《蛾(二)》1934 個人蔵(兵庫県立美術館寄託)

  • 《(少女と犬)》1930年代後半 個人蔵(兵庫県立美術館寄託)
4
1930s - 3: 夢幻と不条理の沃野

本章ではシュルレアリスムに影響を受けた安井の作品を紹介する。1930年代半ばになると「新興写真」は退潮し、写真表現はまた新たな展開を迎えた。その中でシュルレアリスムの理論を積極的に取り入れた写真は「前衛」と形容され、報道写真とともに、際立った存在感を放った。前章で見た安井の「半静物」の取り組みも、写真だからこそ達成できる精緻な現実世界の再現によって、非現実的な詩情と美しさを備えた世界を生み出すことを目指すものへと展開していく。学校教材の標本や模型などをモチーフとする作品や、モデルの撮影会での作品、海や湖を舞台にした作品など、被写体そのものはありふれていても、安井はそれらが置かれた状況の中に不条理かつ夢幻的なイメージを見出したのである。


  • 《浅春》1939 個人蔵(兵庫県立美術館寄託)

  • 《蝶(二)》1938 個人蔵(兵庫県立美術館寄託)
5
Late 1930s - 1942: 不易と流行

1937(昭和12)年の日中戦争の開戦以降、アマチュア写真家たちの活動は徐々に制限されていく。そうした状況下で、安井は戦時社会を生きた人々の姿を象徴的に捉えた作品を残した。それらは悲哀や緊張を感じさせるものがある一方で、どこか突き放したユーモアを感じさせるものもある。この時期には集団による撮影の実践も行われており、丹平写真倶楽部の有志とともに「奉仕」として取り組んだ〈白衣勇士〉や、ナチスドイツによる迫害から逃れてきたユダヤ人たちを神戸でとらえた〈流氓ユダヤ〉がこれにあたる。後者を撮影して間もない1941年の夏、安井は不調を覚える。同年10月には病をおして朝日新聞社主催の講演に登壇し、個人の人格の表現としての芸術の重要性を訴えたが、それから半年を待たずに安井は逝去した。


  • 《馬と少女》1940 個人蔵(兵庫県立美術館寄託)

  • 《流氓ユダヤ 窓》1941 個人蔵(兵庫県立美術館寄託)