明治末、ファン・ゴッホ、セザンヌといった画家の作品が、日本の若い芸術家を強く感化しました。「
芸術の目標は美ではなく表現だ
」という考えが彼らを捉え、これまでにない強いエネルギーと精神性を持った絵画が生まれます。
岸田劉生
や
萬鉄五郎
など、それぞれ作風は異なりますが、自我や内面的なものの表出において共通しています。大正期には
東郷青児
、
神原泰
ら、前衛的な作風に挑んだ洋画家も多く現れました。
岸田劉生《南瓜を持てる女》1914年
ブリヂストン美術館
東郷青児《自画像》1914年
損保ジャパン東郷青児美術館
萬鉄五郎《雲のある自画像》
1912-3年 岩手県立美術館
大正期、伝統的な日本画に反旗をひるがえし、自身の感性や内面によって自由に主題や表現を選びとろうとする動きが、若い日本画家たちの間で起こります。1918年、こうした画家が結成したのが、
国画創作協会
でした。
甲斐庄楠音
、
岡本神草
もこのグループの展覧会に出品し、新しい日本画の創造を追求しました。この時代には、西洋の前衛芸術の影響から先鋭的な表現活動へと向かった
玉村方久斗
や
尾竹竹坡
らもいました。
岡本神草《アダムとイブ》大正期
兵庫県立美術館
玉村方久斗《風景四題−曙》1926年頃
京都国立近代美術館
大正の初め、多くの若い美術家が版画に向かったのは、版画が自らの生を何よりも強く表現できる媒体と考えられたからではないでしょうか。1914年、東京で開催された
デア・シュトゥルム木版画展覧会
は、ドイツ表現主義の版画を多数公開し、決定的な影響をおよぼします。
長谷川潔
は『仮面』誌上で生命感あふれる人物像を表現し、版画誌
『月映(つくはえ)』
では、
田中恭吉
や
恩地孝四郎
がきわめて個性的な作品を発表しました。
恩地孝四郎《抒情 あかるい時》
1915年 須坂版画美術館
田中恭吉《去勢者と緋芥子》1914年
須坂版画美術館
写真表現も1920年代に大きな転回を見せます。自然風景をそのまま写しとるのではなく、画面を光と影の構成として表現することが目指されました。写真は
「光画」
と呼ばれ、リズムやハーモニーによる
「視覚的音楽」
と捉えられました。やがて、写真本来の客観性から離れた写真家たちは、歪曲像や抽象形態による
主観的表現
によって、自己の内面を作品に投影するようになります。
竹田梅汀《題不詳(影)》
名古屋市美術館(7月20日まで展示)
西亀久二《二人の男》1926年
名古屋市美術館(7月22日より展示)
建築における近代の刷新を特徴づけるのは、1920年代初めに結成された
分離派建築会
の活動でした。
堀口捨己
、
滝沢真弓
、
山田守
ら、このグループに影響を与えたのは、ドイツのユーゲント・シュティルや表現主義の建築でした。現実よりも理想的な精神性を重んじる傾向は、音楽家・
山田耕筰
の理想を
川喜田煉七郎
が具現化してみせた音楽堂構想《霊楽堂》にも見ることができます。
川喜田煉七郎《「霊楽堂の草案」より》1924年
日本近代音楽館
滝沢真弓《山の家(模型)》1921年設計
東京大学藤森研究室
伝統工芸からは離れた姿勢で、独創的な作品を作ろうとする動きが大正期に顕著となり、
富本憲吉
や
濱田庄司
による生命感あふれる作例が生まれました。1920年代、
高村豊周
を中心とする
无型(むけい)
というグループは、日本人の新しい生活にふさわしい表現を生命の力強さの表現に求めました。留学中、ドイツ表現主義の室内装飾に感化を受けた
森谷延雄
は、帰国後、斬新なインテリアの作例を発表します。
山脇洋二《煙草入れ》1927年
高松市美術館
森谷延雄《円形花台》1925年
松戸市教育委員会
濱田庄司《ガレナ釉彫絵蓋壺》
1922-23年頃 (財)益子参考館
1914年、ドイツから帰国した音楽家・
山田耕筰
は、美術家・
斎藤佳三
、舞踊家・
石井漠
とともに音楽と舞踊を融合させた
「舞踊詩」
を創作します。20年代、斎藤と石井は
「表現派舞踊」
を発表、また、
小山内薫
らが立ち上げた
築地小劇場
では
表現主義演劇「海戦」
が旗揚げ公演となり、観衆に衝撃を与えました。ドイツ表現主義映画などの影響から、
衣笠貞之介監督「狂った一頁」
など前衛的な映画も生まれています。
荻島安二《花柳はるみの像》1928-29年
名古屋市美術館
舞台写真《「海戦」築地小劇場第1回公演(装置:吉田謙吉)》1924年
早稲田大学坪内博士記念演劇博物館(7月20日まで展示)
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