パウル・クレー(1879-1940)

パウル・クレーの顔写真
1911年 ミュンヘン
パウル・クレー・センター(ベルン)
撮影:アレクサンダー・エリアスベルク

20 世紀を代表する画家のひとり、パウル・クレーは1879 年、スイスの首都ベルン近郊ミュンヘンブーフゼーに生まれた。父はドイツ人の音楽教師、母はスイス人の声楽家という家庭に育つ。音楽は生涯にわたり、クレーの創作の大きな糧となった。1900 年、ミュンヘン美術アカデミー入学。画家として出発した当初は、鋭く辛辣な線描による風刺的な表現が重要な役割を果たした。それは次第に、自分自身を皮肉るような独特の可笑しみに深められていく。1906 年にはピアニストのリリー・シュトゥンプフと結婚し、翌年、息子フェリックスが生まれる。この時期にはリリーが生計を支え、クレーが主に育児を担った。1911 年にミュンヘンの前衛グループ「青騎士」が旗上げされるとその活動に加わり、翌年の第2 回展に出品。この頃、子どもの絵や未開芸術への関心を深めたが、それは「青騎士」の問題意識とも呼応するものだった。1912 年、パリに画家ロベール・ドローネーを訪ねた後、1914 年のチュニジア旅行を象徴的な転機として、色彩を純粋に、運動と浸透の感覚をもって組織する術を体得。以後、ゆるやかな解体の契機をはらんだ画面分節は、クレーの主要な造形的関心事となる。1916 年に徴兵され、ドイツ兵として第一次大戦に従軍。この間に画家への評価は高まっていった。戦後の1920 年は彼のキャリアの画期となり、最初の大規模な回顧展、最初のモノグラフ2 種の刊行、造形学校バウハウスへの招聘といった出来事が相次ぐ。1925 年、画廊との契約解消により、クレーは自作の価格を等級づけて管理するようになる。1931 年、バウハウスの職を辞してデュッセルドルフ美術アカデミー教授に就任するも、1933 年、ナチスの政権掌握に伴い解雇。ベルンへ亡命する。晩年には主に、破壊された記号のような線が画面に散らばる独自の様式を展開するとともに、単純で遊び心に満ちた素描に比類のない境地を示した。1940 年、ロカルノ近郊ムラルトで死去。