兵庫県立美術館
兵庫県美 ボーダレス アートトークは終了しました。
各講演の趣旨・記録を以下でご覧いただけます。
 開催趣旨
経済・情報のグローバル化や技術革新が急速に進み、多様な価値観が生まれつつある現代社会。その中で「美術」の創造性はどのような拡がりの可能性を秘めているのか−兵庫県立美術館は、そのような視座から、「美術」にルーツを持ちながらも美術分野以外のジャンルにおいて創造的な活動を国際的に展開している兵庫ゆかりのクリエイターをお招きし、3回の連続講演会を開催しました。
「創作分野」と「国境」という二つのボーダーを軽やかに超えて活動する3 人のトークゲストには、それぞれの創作の流儀から、美術の持つ普遍的な創造性、美術館やアートのあり方などについて、当館の蓑館長とともに語り合っていただき、150 周年を迎えた兵庫の未来について考える機会となりました。

第1回 2018年11月24日(土)原田マハ(作家)当日の講演記録へ
第2回 2019年1月13日(日)曽野正之(建築家)当日の講演記録へ
第3回 2019年3月2日(土)やなぎみわ(美術作家、舞台演出家) 当日の講演記録へ

*各回ホスト:兵庫県立美術館長 蓑豊 (各講演の後半に蓑館長とトークゲストの対談あり)

 トークゲスト

原田マハ

〈美術× 文学〉

元キュレーターにしてベストセラー作家。
アートへの愛が豊かな物語を紡ぎ出す。

©森栄喜

1962年東京都生まれ。関西学院大学文学部日本文学科、早稲田大学第二文学部美術史科卒。森ビル森美術館設立準備室、同室からの派遣でニューヨーク近代美術館勤務を経てフリーのキュレーターとして独立。2005年『カフーを待ちわびて』で作家デビュー。12年に『楽園のカンヴァス』で第25 回山本周五郎賞受賞、17 年に『リーチ先生』で第36 回新田次郎文学賞受賞。他に『暗幕のゲルニカ』『アノニム』『たゆたえども沈まず』『スイート・ホーム』など著書多数。


©GION

曽野正之

〈美術× 建築〉

テクノロジーだけでない、
人間の為の、美しい《火星の氷の家》を求めて。

1970年兵庫県西宮市生まれ。神戸大学及びワシントン大学にて建築修士号取得。ニューヨークを拠点に文化施設から宇宙建築に及ぶ多様なプロジェクトに携わる。2005年ニューヨーク市によるスタテン・アイランド9.11メモリアル国際コンペ優勝作品によりアメリカ建築家協会公共建築賞受賞。2010年オスタップ・ルダケヴィッチとCLOUDS Architecture Office設立。2015年アメリカ航空宇宙局 (NASA)が主催する火星住居設計国際コンペにて優勝。ヴィトラ・デザインミュージアム、森美術館、ルイジアナ近代美術館等にて作品を展示。現在ANAとJAXAによる宇宙技術開発施設「AVATAR X LAB」を大分県に設計中。


Staten Island 9/11 Memorial 2004年 ©Brian Mosbacher

Mars Ice House イメージパース 2015年 ©Clouds AO/SEArch

やなぎみわ

〈美術× 演劇〉

すべては個々に分散する。
すべてはひとつに戻る。
現代美術と野外劇という対極の表現。

神戸市生まれ。京都市立芸術大学大学院美術研究科修了。学生時代は工芸を専攻。国内外で多くの展覧会を開催し、2009年第53回「ヴェネツィア・ビエンナーレ」美術展日本館代表作家となる。11年から本格的に演劇活動を始め、美術館や劇場で公演した後、15年『ゼロ・アワー東京ローズ最後のテープ』で北米ツアー。16年夏より台湾製の移動舞台トレーラーによる野外演劇『日輪の翼』(中上健次原作)を、熊野をはじめ各地で旅巡業している。2019年2月より、10年ぶりの美術館個展が全国巡回する。


野外劇「日輪の翼」2017年 企画演出/やなぎみわ 原作/中上健次 ©bozzo

「女神と男神が桃の木の下で別れる」より「川中島白桃」2016年 Digital Print
 ホスト

  兵庫県立美術館長  

 蓑 豊

1941年金沢市生まれ。慶應義塾大学文学部卒業後、ハーバード大学大学院美術史学部博士課程修了、文学博士号取得。カナダ・モントリオール、米国・インディアナポリス、シカゴの各美術館にて東洋部長を歴任。1996 年大阪市立美術館長、2004年金沢21 世紀美術館初代館長に就任し、2005年より金沢市助役も兼務。2007年4月、金沢21世紀美術館特任館長、大阪市立美術館名誉館長となり、同年5月、オークションハウスのサザビーズ北米本社副会長に就任。2010年4月より兵庫県立美術館長。

 当日の講演記録
4月4日更新

やなぎみわさん講演記録(2019年3月2日/第3回・兵庫県美ボーダレスアートトーク)

「美術」と「舞台」を行き来して
神戸を、そして日本を代表する美術家やなぎみわさん。1990年代に「エレベーターガール」シリーズで一躍脚光を浴びたやなぎさんは、その後「マイ・グランドマザー」シリーズ、「フェアリー・テール」シリーズなどの写真作品で評価を確立し、2009年にはヴェネチア・ビエンナーレ日本館代表にも選ばれた。そのやなぎさんが、2010年以降、演劇への傾斜を強めている。美術館や劇場での公演を経て、ついに2016年からは、ステージトレーラー車による野外劇「日輪の翼」の公演を実現した。これまで、やなぎさんが歩んだ創作の道筋とは、また今後何を目指していくのか、語っていただいた。


熊野・新宮講演の野外客席にて(撮影:熊野新聞)

美術館デビュー作品は、実はパフォーマンスだった

この日は、若い人も聞きに来られているということで、やなぎさんは京都市立芸術大学の在学時代のことから振り返った。専攻は工芸(染織)だったやなぎさんは、3回生頃から、ファイバーアートで大型インスタレーションを発表するようになっていた。大学の先生方は、前衛とは正反対の日展系の方が多かったが、温かく見守ってくれていたという。そして(ご本人曰く)「さらに迷走」して、卒業後の1993年に京都市内のアートスペース虹で発表したのが「エレベーターガール」シリーズの最初の個展だった。
この展示は、現在のやなぎさんが知られているような写真作品ではなく、生身の女性二人がエレベーターガールの制服を着用して、朝から晩まで画廊に佇んでいるという作品だった。その展示を見たのが当時、兵庫県立近代美術館の学芸員だった尾崎信一郎さん(現鳥取県立博物館副館長)。興味をもった尾崎さんは、やなぎさんに同館の「アートナウ'94」への出展を依頼した。アートナウといえば、現在、再注目されている「関西の80年代」アートシーン形成に大きく貢献したとされるグループショウ。やなぎさんは大変光栄だと感じ承諾したが、広い空間を制作費ゼロで埋めなければならなかったという。熟慮の末に考え出したのが、制服に身を包んだ「案内嬢」14人が、他作家の出品作品の解説を会場で行うパフォーマンス作品だった。尾崎学芸員が書いた作品説明のテキストを彼女たちが読み上げるという趣向である。(展覧会図録もやなぎさんがデザインした。)
この作品は好評を博したが、数多くの人が関わる運営方式は、不測の事態も多く、生身の集団を統制する難しさを感じたという。やなぎさんは、その後、工芸同様、メディウムである写真を媒体に「案内嬢」たちを撮影することとし、写真を用いる現代美術作家として国内外に認知されていった。


アートナウ1994会場にて(兵庫県立近代美術館)


やなぎみわ《案内嬢の部屋B1》1997 所蔵:兵庫県立美術館

演劇作品で復活した「案内嬢」

2000年代に入ってから、「マイ・グランドマザー」シリーズ、「フェアリー・テール」シリーズなどの写真シリーズを展開して、「案内嬢」から離れていたやなぎさんは、2009年のヴェネチア・ビエンナーレに参加した後、2010年頃から舞台作品を手がけるようになった。2011年には本格的な演劇作品「1924」三部作を発表。その第一部である「Tokyo-Berlin」は、京都国立近代美術館の「モホイ=ナジ展」の展示会場を舞台に、美術館の協力の下で開催した「舞台作品」だった。これには、「『案内嬢』をしゃべらせたらどうなるか」というやなぎさんの思いも含まれている。この中で制服を着た「案内嬢」が、展示作品を説明する狂言回しのような役回りで観客を誘導。音声ガイドでのオーソドックスな解説だけでなく、作品を前に露店の香具師や見世物屋の呼び込みのような口上に移行しながら、最後に美術館内に設けられた演劇空間に案内、そこでモホイ=ナジや村山知義ほかが登場するという芝居が上演された。ここで「案内嬢」は、演劇空間とは別の位相(レイヤー)の存在として、登場したのである。続く第二部「海戦」では、関東大震災直後の東京を舞台に村山が小山内薫、土方与志とともに築地小劇場を立ち上げる内容で、実際に築地小劇場でこけら落としで演じられた「海戦」が劇中劇として再演された(このように様々なレイヤーを提示したり、虚実の境をなくし、場を「異化」するのがやなぎさんの演劇作品の特徴でもある)。


1924 Tokyo-Berlin (撮影:早瀬道生)

案内嬢が動き出したら、何を語るか −「ゼロ・アワー〜東京ローズ最後のテープ〜」

大正時代の「1924」に続いて、やなぎさんが取り組んだ演劇作品は、第二次大戦前後の日米を舞台にした「ゼロ・アワー〜東京ローズ最後のテープ〜」である。東京ローズとは、日本軍による対米謀略放送において、プロパガンダアナウンサーを務めた女性たちの呼び名である。彼女たちの多くは日系アメリカ人で、たまたま開戦時に日本に滞在していたため、これに従事することを余儀なくされた。劇中では、「Greeting, my fellow orphans in the Pacific, How are you?」(こんにちは、ごきげんはいかが?太平洋の孤児たち)という、様々な女性の甘い声が流されたが、やなぎさんは、放送時に米兵の戦意を喪失させたという女性の声の質にこだわり、音楽家フォルマント兄弟の協力を得て、それらを妖艶に再現した。複数いたとされる東京ローズの正体はその声を聞いた人によって異なり、誰でもあり、誰でもないのであるが、そのような仲介的存在、透明な存在をやなぎさんは案内嬢たちに演じさせたのである。コスチュームももちろん、やなぎさんのデザインである。
また、この作品では一人の女性を東京ローズに仕立てて有罪に導いたラジオ局の男性と、ローズたちの声を聞き分けていた米軍の通信兵が、罪の意識を感じながら延々と終わらないチェスを続けるシーンが描かれているが、やなぎさんによると、当初は祝祭であったはずの演劇も、ロングランとなると機械的に、安全に同じことを繰り返すショウとなる。同じことを繰り返す大きな徒労が果てしなく続くのが演劇であり、この作品にもそのような視点が込められているという。
この作品では日本で2013年に初演を行われた後、2015年には、2週間の間に北米5都市を巡回するツアーが敢行された。

ゼロ・アワー チラシ
上記画像をクリックすると拡大pdfでご覧いただけます。

祝祭としての野外劇 −「日輪の翼」

祝祭といえば、野外劇だとやなぎさんは言う。野外劇との出会いは、十代の頃に観た唐十郎の状況劇場の紅テント公演「少女仮面」だった。神社の境内の特設テントで行われ、ラストで舞台が崩れる「屋台崩し」が衝撃的だったという。
やなぎさんの野外劇「日輪の翼」は、作家・中上健次原作の小説を舞台化した作品。「路地」と呼ばれた熊野の被差別集落を開発に乗じて売り払った7人の老婆と、若い男たちがトレーラーに乗って、伊勢、恐山、東京(皇居)などを巡る旅の物語だ。やなぎさんは、台湾で出会ったステージトレーラーに着目し(台湾では、移動カラオケ舞台として普通に見られる)、実際にトレーラーを購入、花のように美しく開く構造に改造し、電飾きらめく空間でポールダンスやロック音楽などとともに物語が繰り広げられる祝祭的な演劇を作り上げた。2014年から始まったこのプロジェクトは、熊野はじめ、横浜、大阪などで巡業されているが、回を重ねる中で公演地に応じて演出も見直され、2017年の京都公演では、在日朝鮮人に関わりの深い土地の歴史を踏まえて、韓国からプンムルの奏者を迎えての公演となった。会場となった河原町十条の駐車場は、かつて在日朝鮮人が働いた巨大な染色工場や長屋があった場所。それらが取り壊され、今は阪神高速道路の高架下になっているが、旋回する道路に囲まれた立地で、紐をくるくる回す舞踊であるプンムルが演じられたわけである。やなぎさんは、野外劇においては、地面の下に何があるか、いつも考えて演出をしているとのこと。
野外劇の最大の特徴は、当然のことであるが、自然現象に左右されることだと、やなぎさんは語る。通常のニュートラルな劇場空間では、そのスペック内においては何でもできる。しかし野外劇では、夕焼けや星空など、素晴らしい借景のギフトがある反面、台風で中止になることもある。台風だけお断り、というわけにはいかない。京都公演が台風で中止になった時、今更ながら、人間の意思の力では完成しないこともある、ということが分かったという。しかし、それでも野外劇には挑戦したいとやなぎさん。海外の知人からは、天候が穏やかな時期を選んで公演すればいいと言われるが、リスクを覚悟してやるのがアジアの演劇だと考えている。ギリシアなどとは違い、アジアでは、雨は常に降るからだ。


「日輪の翼」公演風景

やなぎさんの次なる演劇プロジェクトは、今年秋に神戸で開催されるアートプロジェクト「Trans-」だ。生まれ育った兵庫区のウォーターフロントを舞台に海上での野外劇を構想しているという。参加作家は、グレゴール・シュナイダーさんとやなぎさんのたった二人だけというユニークなアートプロジェクト。今年もやなぎさんの活動に注目したい。
アート・プロジェクト:TRANS-

やなぎみわ(美術家・舞台演出家)× 蓑豊(兵庫県立美術館館長) 対談

―野外劇は、一つの終着点。(やなぎみわ)
―ゼロ・アワー」がアメリカで公演されたことは、素晴らしい。(蓑館長)

(以下 やなぎみわさん=や、蓑豊館長=蓑)



蓑:やなぎさんは「エレベーターガール」で有名になられて、当館でもその作品を所蔵していますが、そこからパフォーマンスに移っていった流れを実際に映像でも拝見して、大変ご苦労して、いろんな道を歩んでいるのだと分かりました。やなぎさんは、どういうところを終着点と見定められているのですか。

や:野外劇は、一つの終着点ですね。またここから先もやらせてもらえればですが、一番やりたかったことの一つなんです。

蓑:最初、大学ではファイバーアートだったんですね。「エレベーターガール」もシアター性がありましたが、それ以前にも舞台への関心はあったんですか。

や:舞台芸能は小学生時代からすきでしたね。うちは、母と祖母が宝塚の大ファンで、祖母に至っては戦前からのファンで、戦後は焼け野原の中、神戸から宝怩ノ通ったそうです。筋金入りなんです。

蓑:体にしみついているんですね。

や:家族で毎週、「宝怐E花の指定席」を見ていましたし、宝塚大劇場にも一緒に足を運びました。それで、だいたい想像がつくと思うのですが、娘を宝怩ノ入れようとするんですね。私は、ダンスや日舞を習わされました。母親たちは、私に宝怏ケ楽学校を目指すよう仕向けていたんです。

蓑:それがなぜ美大に?

や:どうも歌やダンスは得意でなかったんです。日舞は好きで続いたんですが。ともかく、私は背も高かったこともあって、母と祖母がタッグを組んで、期待していたのが逆にプレッシャーになってしまって。家中に「ベルサイユの薔薇」などのスターの写真が貼ってあったり、母親がスター相手にキャーキャー言っている姿を見るにつけ、ちょっと勘弁してほしいと思うようになって、距離を置いてしまいました。

蓑:でも、さきほど一緒にやなぎさんとエレベーターに乗ったとき、居合わせた母娘が、やなぎさんをじっと見入っていましたよ。それだけ存在感というか、オーラがあるのだと私は思いましたよ。

や:そうですか。あと、家族は歌舞伎も好きでしたね。宝塚と歌舞伎に共通するのは、男役・女役のジェンダーが倒錯した世界であることですね。

蓑:ともかく、そういった子供の頃の感性が今も残っているんですね。

や:そうですね。でも、野外劇に進んだのは、自分でもちょっと意外でした。私が最初に野外劇を見たのは大学生の時で、唐十郎さんの状況劇場の紅テント公演でした。京都で一人で見ました。「少女仮面」という演目で、春日野八千代(宝怏フ劇の男役)と称するおかしな女性が満州の野戦病院で宝怏フ劇を演ずる舞台で、最後にテントが崩れていきなり野外になるんです。その体験が今も残っているのかもしれません。

蓑:話は変わりますが、個人的には「ゼロ・アワー〜東京ローズ最後のテープ〜」に興味を覚えました。実は、私がシカゴ美術館で働いていた頃、シカゴ・カブスの球場の近くに東京ローズだとされたアイバ戸栗さんのお店があったんです。日本の品物を扱っているお店で、そこでお姿をお見かけしました。知人から「あれが有名な東京ローズだよ」と教えられたんです。

や:そうなんですか。戸栗さんと言えばこの方です。(資料写真を指さす)

蓑:いや、私がお会いした頃は、もうおばあさんでしたけどね。

や:この写真は、彼女が戦後直後にGIたちに囲まれているものです。ここから先は、彼女に悲劇的なことが起こりました。戸栗さんは、日系2世のアメリカ人でしたが、裁判で禁固十年になり、アメリカ国籍も剥奪されました。彼女は開戦前に親族のお見舞いに日本を訪問したときに開戦となって、アメリカに帰れなくなっただけなんです。そのような人が当時、2千人いたそうです。差別を受けて、彼女のように対米謀略放送への協力を余儀なくされた人もいたそうです。この時代、二つの国の間にいる人は、戦争に翻弄され、大変な目に遭いました。

蓑:彼女は巣鴨で収監されて、アメリカでもキャンプに入れられて、苦労したそうですね。

や:カナダのトロントでは、日系センターで公演しましたが、そこでは戦時中ご苦労された移民のお話を聞きました。さきほど中上健次の話もしましたが、熊野や和歌山はカナダ移民が多く、サーモン漁に従事する人が多かったようです。彼らは造船技術に長けていたのですが、その技術だけ持っていかれてしまって、みな収容所で亡くなったそうです。

蓑:日本からの移民は、大学を出ていない農業関係の方が多かった。それに比べると中国やユダヤからの移民も貧しかったが、子供だけは教育をということで政治的にもサポートをして、アメリカで先生や弁護士、議員になった人もあったんですが、日本人はサポートがなされず、ただ言われたとおりキャンプに入れられる人が多かったと、アメリカにいたときによく聞きました。彼ら日系人は財産も没収され、アメリカ政府から少しずつお金を返してもらえるようになったのは、ほんのこの20年ほど前からのことです。

や:戦争は両国に大きな傷を残していて、アメリカにおいてもその憎しみが東京ローズをはけ口にするような面もありました。アイバ戸栗さんも大統領選挙に利用されました。東京ローズの声というものは、南太平洋上の戦艦の米兵に向けて作り上げられた妄想であり虚像だったのですが、それによって、戦後、日系の人が犠牲になったのです。彼女たちのことはドウス昌代さんが詳しくドキュメンタリーにまとめられています。また、1945年にアメリカで「東京ローズ」という題名で映画化もされています。これは、マダムバタフライみたいな、典型的な東洋女性への偏見で描かれた映画たったんですが。

蓑:日本からの移民は、広島、和歌山、熊本が多かったそうですね。

や:神戸からも出て行った人も数多くいました。今年の野外劇では、熊野から移民に出ていくシーンも考えているところです。

蓑:それはまた楽しみですね。
この作品をアメリカやカナダで上演し、たくさんの日系の人にも見てもらって、真実を知る機会を作ってくれたことは、本当に良かったと思います。
今日はありがとうございました。

2019年3月2日 兵庫県立美術館にて



3月8日更新

曽野正之さん講演記録(2019年1月13日/第2回・兵庫県美ボーダレスアートトーク)

人のための“建築”と“アート”― ボーダーを越えて

アートと建築の関係性は、ギリシャやローマなどの古代文明以降、西洋美術史において欠かすことのできない永遠のテーマであるが、そのふたつは共通する課題――アーティストや建築家がパブリック(公衆)とどう関係を築き、自らのセンスをもって彼らにどのような影響を与えることができるのか――によって繋がっている。

建築家として、その課題に挑戦し続ける曽野正之(そのまさゆき)さんは、ニューヨークを拠点に公共建築やパブリック・アート、近年では宇宙建築に至るまで、建築とアート、テクノロジーサイエンスを自由に横断し、幅広いプロジェクトを発表し続けている。建築を設計する時は、いつも「使う人」のことを考えるという曽野さん。その常識に囚われないアイデアの源はどこから湧き出てくるのか、曽野さんの目指す建築とは?

アメリカと日本、2つの国での経験

シアトルの大学院に進学して20数年、アメリカで建築家として活躍してきた曽野さんにとって、アメリカという国は自身の重要なアイデンティティである。

父親の仕事の関係で、曽野さんは、小学校の2年〜6年の4年半の間ニューヨークの近くの町ですごしたという。初めてニューヨークへ行った時に一番驚いたことは、めちゃくちゃ汚い、そして怖い街。夜6時以降は街に出るな、ホテルの金庫に物をあずけるなといったマニュアルが観光局から配られる程、当時のニューヨークの治安はひどかったようだ。
けれども、完成して数年後の白く輝くツイン・タワーがそびえ立つニューヨークは、まさにカオスそのものであると同時に、「とにかく、強烈に自由だった」と曽野さんは振り返る。怖くて見たくないけれども、すごく開放感があり興味をそそられる、二つの相反する感情に引き裂かれるようなカルチャーショックを受けた。その影響は後の曽野さんの人生に多大なる影響を与えたという。



英語も喋れない中、アメリカの学校に送り込まれたので、友達とのコミュニケーションは絵を描いたりものを作ったりするほかなかったと曽野さんは振り返る。もともとアートが好きだった曽野さんは、その頃からより創作に没頭するようになり、中学で日本に戻ってからも、その性格は抜けなくなってしまったそうだ。その後、神戸大学工学部建築学科に進学した曽野さんは、建築の勉強をする傍らで美術部に入り、絵を描き続けた。修士課程の2年間では、交換留学の制度を使って、神戸市の姉妹都市であるシアトルのワシントン大学にいき、アメリカでも建築の研究を行った。アメリカの建築の教育は日本と違っていたこともあり、建築にしかできないことはなにかを考え始めた。「一種の反動のようなもので、逆にアートにできないことをやり始めた。アート・コンプレックスであったと思います。」と振り返る。
修士論文では、状況に合わせて増築と改築を繰り返したシアトルの一番古い建物の例を用いて、街の文脈・記憶にいかに建築が接続し、継承しているかという内容をテーマに、研究を行った。「建築とは頑丈なものをしっかりつくれば残るというわけでなく、デザインがよければ、プログラムや用途が変わっても、人は使い続けてくれるのではないか」ということにこの時曽野さんは気づいた。
その後、「建築」か「アート」か、という両極端に振れていた方向性を修正し、その両方を成立させることを目指すようになった。


クリエイティヴィティは暴力と不条理に勝てないのか

2001年9月11日、航空機を用いた史上最大規模のテロ事件として、全世界を震撼させた「アメリカ同時多発テロ」が起こった。日本では「9・11事件」と呼ばれるこの事件では、ハイジャックされた旅客機が、ニューヨーク・ロウアーマンハッタンのワールドトレードセンター・ツイン・タワーなどに突入、爆発炎上し、多くの民間人や、救助に当たった消防士らが命を落とした。 当時、曽野さんは建築家として、マンハッタンで働いていた。仕事でワールドトレードセンターにも足繁く通っており、クライアントのオフィスのあるツイン・タワーへ、図面を持って行ったり、最上階のバーに行ったりしたこともあったという。「その事件の後、住んでいたダウンタウンは一変し、通りは装甲車や兵隊だらけ、空には軍用ジェットが飛び交うようになった。ニューヨークもすっかり変わってしまって、ショックをうけました」

曽野さんは復旧作業のチームに参加し、ツイン・タワーの跡地のクレーターを実測する仕事に携わった。クレーターの計測は、新しく建築を建てるために必要不可欠な作業である。その際曽野さん達は、跡地の一角に、犠牲になった方々のリストをいれた仮設のメモリアルを作った。しかし、テロの復興という一大プロジェクト、計測された跡地に建てられる建築物(現在のビル群や諸施設)は、指名コンペのみによって進められ、著名な建築家があてられた。そこに曽野さんら若手の建築家が入り込む隙はなく、発言する機会を与えられないまま、数年が経った。そしてまもなく、反対デモによく参加していたイラク戦争が始まった。
「一種の幻滅とか、無力感を感じた。それまでずっと、美しいものであるとか、社会の中での建築の役割、一種の僕らの価値観が否定されたというか、それらが暴力に全く敵わないと。そういう無力感がすごくある時期だった」

そのおよそ3年後、ニューヨーク市による、スタッテン区の267名の亡くなった犠牲者の為の、メモリアルコンペの募集が発表された。初めてのオープンコンペとして建築家の仲間の間でも話題になっていたこのプロジェクトは、ツイン・タワーを見る場所として設計された水辺公園が場所として選ばれた。曽野さんはこのコンペティションに応募することにした。
「メモリアルというのは、戦争に行って亡くなった方に関するものが多いんです。(兵士として)戦争に向かうということは、帰ってこれないかもしれないということ。なので、家族や友達にお別れを言ってから(戦地に)行く。それに対しテロの犠牲者は、僕らと同じ一般の人で、朝、行ってきますといって、日常の中から急に帰ってこれないという状況なんですね。その無念さというものを感じました。設置予定の場所に行ってみて、そこから見たマンハッタンの上空に、まだ犠牲者の人たちがいるような気がした。なんとかしてそれを繋ぎとめるようなものを、創ろうと考えました」


使う人の、心に寄り添う――「9.11」犠牲者のメモリアルプロジェクト



そうして誕生した、ニューヨーク・スタテンアイランドからツイン・タワー跡地を軸の中心に構成されるメモリアル《The Staten Island September 11 Memorial》(スライド写真)は、当時の曽野さんの思いを集約させた、彼の代表作といえるだろう。

「風に運ばれ、亡くなった人々に届けられる手紙」をコンセプトに建てられたこのモニュメントのデザインは、曽野さんが何度も何度も紙の模型をつくり、アイデアを磨き上げ、形にしていったことで生まれたものだ。折り紙のような、対になった葉書によるデザインは、様々な角度から見たとき形が違って見えるような形状をしており、またマンハッタンへ向けて手を広げているような構造が、見るものを空と海へ誘い、空間の広がりを感じさせるようになっている。さらに、建物の内部には、犠牲者の名前と情報、そして彼らの横顔を象ったプレートが安置されており、遺族の人々が亡くなった人の面影を感じることができる。
曽野さんは、壁のデザインよりも建築の領域を越えた内部のプレートのデザインに悩んだという。募集要項にあるプレートのリクエストを読んだ時、名前の記載のみの一般的なメモリアルから、一歩その個人のアイデンティティを付加するなにかを作りたいと考えたそうだ。
曽野さんは昔から、横顔やシルエットが好きで、よく写真を撮ったり絵に描いたりしたそうであるが、横顔をモチーフに選択したことは、実は、曽野さんの身近な人との体験に基づいている。

親しい友人宅にて、曽野さんがその友人に、締切り間近のコンペティションについて相談をしていたときのことだ。曽野さんはそこで机の上に、ニューヨークを去ったばかりの、友人の彼女の写真を発見した。それは顔の良く見える正面からの写真ではなく、横顔のシルエットの写真で、以前曽野さんが撮影し贈ったものだった。なぜ横顔なのかと曽野さんが問うと、その友人は、寂しさから正面の写真は見たくないが、横顔だとちょうどよい。面影は分かるけれど、面と向かわなくていい、と言った。曽野さんはその言葉に、9.11の状況と通じるものを感じたそうだ。曽野さんは帰宅してすぐ、家の壁に原寸のモックアップを作り、一筆書きの横顔の形をしたプレートの模型を作り始めた。 コンペは、展覧会や市民と遺族の方へのプレゼンテーションを通して審査が行われ、最終的に曽野さんのプランが採択された。 プランの採用が決定した後、曽野さんは建築の細かい設計を行いながら、遺族の方とのヒアリングややり取りを通して、本格的に横顔のスケッチを描き始めた。しかし、横顔のデザインの決定は困難を極めた。まず、正面や斜めからの写真はあっても、横顔の写真はあまり撮られていないことが多く情報が少ない。さらには、デッサンを重ねていくにつれ、顔の印象がどんどんわからなくなっていく・・・。建築の図面と横顔のデッサンが混ざり合う作業場の中、曽野さんは様々な作業を同時進行させながら、デッサンについては「ぱっと見たときの印象」を大切に描いたり修正したりして形にしていった。横顔のスケッチは、すべての遺族の方からのサインが貰えるまで、彼らに寄り添いながら丁寧に進められた。
「立体的なレリーフにして欲しいとの提案もあったが、一筆書きにしたのは、想像する隙間を与えたかったこともある。人によっては、シルエットが笑っているように見えるかもしれないし、泣いているようにみえるかもしれない。それはその時次第だし、いろいろな記憶とかをプロジェクトできるスクリーンにできれば」と曽野さんは言う。石から切り出された横顔が、自分の殺された現場を見つめているという構成は、慰霊の意だけでなく、残された我々に何かを問いかけているようである。


曽野正之《Staten Island 9/11 Memorial》2004年 © Suisho

また、スケッチに沿ってウォータージェットで切り取られた石版の、使っていない側のパーツは、遺族の方々に配られ、彼らの家に、寝室に、小さなメモリアルとして散らばり、一つに繋がっている。

5年後、ニューヨーク市からメモリアルの増築の依頼があった。ツイン・タワーが崩落した際に、有害物質が含まれる瓦礫の中で救助に当たったことで健康被害により犠牲になった人々の為の増築であった。曽野さんは、修士論文で「デザインを足す」という研究をしており、その経験が実際に自分の作品において活かされることとなった。
命を懸けて復旧に当たった人々の貢献度を表現するために、作業で発生した瓦礫の質量を球形に想定し、円周の一部を切り取ったデザインになっているこのモニュメントでは、素材の石、特にその色を徹底的にこだわり、時間によって海面と同化して見えるようになっている。

犠牲者と遺族の心に寄り添ったこれらの作品は、「一般的な建築家らしくない」発想によって創られたと言えなくもない。曽野さんが「一人の人間」として向き合ったことで生まれた発想によって、これらの作品は誕生した。その時、曽野さんの中では建築家やアーティスト、日本やアメリカといった境界、つまりボーダーは存在していなかったと言えるだろう。

NASA火星基地コンペティション

9.11モニュメント以降、事務所でアジア・ソサエティ(ニューヨーク)の増改築、第二次世界大戦ミュージアム(ニューオーリンズ)など、美術館の設計などを手がけた曽野さん。友人のオスタップ・ルダケビッチと《Clouds Architecture Office》という事務所を立ち上げた後は、ニューヨークや日本で、集合住宅などいわゆる普通の建築を設計していた。
その一方で、事務所の仕事が終わったあとの夜の時間に、昼とは全く趣向の異なる、コンペティションやよりコンセプチュアルな設計に邁進していたという。 「どの分野の人でも、働いていたら同じだと思うんですけど、やりたい仕事はなかなかできないことが多い。そうこうしているうちに、何でこの仕事を始めたんだろうと、わからなくなってくることもある。そういう時期が僕にもあって、なんとかしてそれを打破しようと。もともとやりたかったことは、もっと意義があって、クリエイティヴなことではなかったのか?という気持ちがあった。そこで、自分たちで《speculative》と言っていますけど、仮想でプロジェクトを作って提案するということを始めた」
そうした活動にある程度蓄積ができた頃に、NASA(アメリカ航空宇宙局)の火星基地コンペティションを知り、妻でやはり建築家である祐子さんを含む曽野さんのチームはこれに参加することになった。

4名の宇宙飛行士が1年間、火星で滞在することを想定したこのプログラムは、輸送に制限があるため「建築材料を現地調達すること」、さらに、宇宙飛行士が宇宙線で被爆しないよう「飛行士が火星に到着する前に、自動で建築を完成させること」という厳しい条件をクリアする必要があった。火星は、一日のサイクルが地球に近く、重力は地球の3分の1、しかし大気がほとんどなく平均気温はマイナス43度であるという。
曽野さんらは、往復の時間を含めトータル2年半のミッションを、非常に小さな空間の中、極限状態で共同生活をするという点に注目した。そこで、閉じられた狭い空間を広く感じさせるため、太陽系の中でも一番高低差があり、ドラマチックである火星のランドスケープを取り入れることで、人間にとっての精神・心理面でのリスクを軽減させようと考えた。「技術面も必要だが、同じ程度に心理面を考え、極限状態でもチームワークがちゃんと機能するようにしたかった」と曽野さんは言う。そうして考案された「氷の家」――《Mars Ice House》は、その名のあらわすとおり、氷を外壁とした仮想宇宙建築である。水は人に不可欠な物質でありながら、それに含まれる水素は宇宙放射線からの被爆を遮蔽する性能に優れている。火星の気温の低さにより水は凝固して氷となるが、それを外壁として利用することで、宇宙飛行士を被爆から守りつつ自然光と眺望を与える。通常大気の薄い環境では水や氷は昇華されてしまうが、この大きな課題に対して、曽野さんは気圧を調節する膜構造をあえて外に出すことで対応している。氷の透明性を損なわないために、膜の素材は透明で、既に宇宙で実用化されているものや開発が期待されているものをリサーチし、選定している。
また「自動建築」という条件に対し、曽野さんは専門家に協力を得ることで、ロボットによる建築の3Dプリンティングという提案を行った。ロボットは、プリンティングを行う役目をもつもの、氷を集めるものの2種類があり、それらの設計も併せて行われた。


曽野正之《Mars Ice Houseイメージパース》2015年 ©Clouds AO/SEArch

コンペティションのファイナリスト30候補は、いずれも世界の強豪設計事務所であったが、彼らをおさえ、曽野さんのチームは見事1位に選ばれた。それは、曽野さんの建築に一貫して存在する「使う人のために」という思いと、機能的であるだけでなく、美術的な側面、見たときの純粋な「美しさ」が内包されているからだろう。
「私は若いときに、ずっと絵を描いたりものを作ったりしていて、今と同じようなことをしてきた。実感として、何が一番為になっているかというと、ものを作る時の、楽しい面とつらい面というのを、凝縮して若いときに体験したこと。こういう仕事をしていると、なかなか難しく、うまくいかないことも多い。そういう時、何とか粘り強くやっていればできるはずだという、そういう自信というか経験があるので。」
「とにかく、クリエイティヴィティが一番重要。何か自分の想像の範囲を超えるものを作りたいという思いが、エネルギーになっている。それでここまでやってこれたのだと思います。」

このようにニューヨークや火星を舞台に展開されてきた曽野さんのクリエイティヴなプロジェクトであるが、実は近い将来、国内でも実作品を見ることができそうだ。
2018年、ANAとJAXAが宇宙関連事業参入をめざす企業・団体と連携して立ち上げた『AVATAR X』プログラムの技術実証フィールド『AVATAR X Lab @ OITA』の設計を曽野さんの事務所(Clouds AO)が担当することが発表された。大分県内の某所の敷地をクレーターに見立てて、各種施設を配置。シンボルビルディングは張り巡らされたワイヤーで「クレーター」の中空に浮かぶ構造になっており、この施設を中心に月面等をシミュレーションしたフィールドで各種の技術実証実験や事業性検証が行われるという。
2019年以降は、このプロジェクトのために来日する機会も増えたそうで、曽野さんの今後の動きから目が離せなくなりそうだ。

曽野正之(建築家)× 蓑豊(兵庫県立美術館館長) 対談

―外に出るということは、自分の価値観のパースを広げるということになるので、世の中が変わっていくと思うんです(曽野正之)
―今日の先生の話を聞いて、若い人が「自分もいくんだ」と。簡単でなくとも、それくらいの勇気があってもいい。(蓑館長)

(以下 曽野正之さん=曽、蓑豊館長=蓑))

蓑:これからの未来に向けて、今日みたいな講演会が開かれることは私にとってもうれしいし、これからの若い人たちにとっても、もっともっと身近なものに感じて頂ければいいと思う。先生は小学校2年から、何年アメリカにいましたっけ?

曽:4年半です。始めは現地校に行きまして、最後の1年半は日本人学校に行きました。

蓑:日本に帰ってきてすぐ、阪神間の中学校ですか?ギャップと言うのは大きかったですか?

曽:ほんとにおもしろくって、行ったときより、実は帰ってきたときのほうが、もっとカルチャーショックでした、あんまり言いたくないので言わないですけど(笑)当時今のようなインターネットもないし、何分間かの国際電話くらいで、かなり浦島太郎になってました。日本にいない少年期の、私の頭の中で、理想の日本がどんどん膨らんでいって。
当時の80年代の日本は、校内暴力の華やかな時代で(笑)なんか、自分の中でギャップがありました。それがあったので、後に留学でシアトルに行くことになったのかもしれないですけど。中学の間は友達を作らなかった。精神的に内にこもって、ずっと絵を描いたり本を読んだりしていた。人生で一番暗かった時代ですね。

蓑:私はずっと日本にいて、26のとき外国に出たいと思ってアメリカに行きました。今、日本の留学生が急激に減っていっているんですね、私はもう少し若い人たちがおもいっきり、世界に出て行ってほしい。
建築家になろうとおもったのはいつ頃ですか?

曽:ずっとものをつくるのが好きで、もとは絵描きになりたかったとか当然あったんですけど、せっかく物理や幾何学が好きで得意だったので、父がエンジニアだったし、建築家が合っているんじゃないかと。建築面白そうだな、とりあえずいってみようと思って。
大学に行きだして、始めは建築をやりながら、うまくいけばアートのほうに行ってやろうかと思っていたんですけど、やっているうちに、本当に好きになっていって、のめりこんで行きました。若いときのそういうのは、わからないものです。その中で自分の居場所、スタンスを探していって、アート的な自由さ、クリエイティヴな要素を取り入れながら、建築に貢献しようと考えました。



最近若い人が日本から出ないと話があったが、僕が学生の頃は、アメリカの建築大学やいいデザイン事務所に行くと、アジアからの生徒はみんな日本人だった。今は、アメリカで教鞭をとってみて、びっくりした。生徒は半分くらいアジア人だが、みんな中国や韓国の生徒達。なんかのきっかけで、旅行でもいいから、外に出るということは、自分の価値観のパースを広げるということになるので、世の中が変わっていくと思うんですよ。特に、日本では気にし過ぎることが、(外では)実はそんなに気にしなくていいとかね。気が楽になることもある。もしくは自分のあり方を調整する、見方を調整することもできる。
道はもっと自由に広がると思うんですけど、そういうきっかけがもっとあるべきだと思います。スケールは関係ないと思いますけど、自分の家から出るとか、それこそ地球からでるとかね。パースを広げると言うことは、精神衛生上健康的なことだと思います。

蓑:世界はこんなに小さくなっているのに、どんどん離れていっているような気がする。今日の先生の話を聞いて、若い人が「自分もいくんだ」と。簡単でなくとも、それくらいの勇気があってもいい。

曽:インターネットなどテクノロジーの進化で、世界は近くなっているはずなんですけど、僕らの若い頃と違って、なんでも(端末の)窓から見ることができることが、逆効果になっていっている気がする。本物を見ちゃった気になっているかもしれないこともあったりして。全体的に好奇心が減っていっているのかと。僕とか出て行きたいと思うようになったのは、好奇心があったから。好奇心はクリエイティヴィティの原動力になる。メディアが発達し情報量が増えたせいで、想像の隙間がなくなっているのではないか。そことどうバランスをとるかが、今のカルチャーだと難しいところ。個人的には情報量が多いのが好きじゃなくて、テレビよりラジオが好き。ラジオを聴いていろいろ想像するのが楽しい。自分の中で美しいものを作れるのは、想像力の中だけだと思っている。

蓑:もっと世界は広い。もっと本を読んだり、ラジオを聴くとかしてもらうと、もっとかわると思う。

曽:本当に楽しいということをわかってもらうのが一番。つらいことはあるけれど、言葉もいつになっても悔しいこともあるけれど、それを超えるくらい楽しいこともいっぱいある。

蓑:曽野さんが、このようにニューヨークで頑張っているのはうれしいし、日本人があのようなモニュメントをあそこにつくったのも意義があるし、火星のプロジェクトもそう。若い人があとに続いてくれるといいと思う。
今日はありがとうございました。


2019年1月13日 兵庫県立美術館にて



1月17日更新

原田マハさん講演記録(2018年11月24日/第1回・兵庫県美ボーダレスアートトーク)

「境界線を越えて 美術と文学 ボーダレスな活動」
「大好きな神戸、大好きな兵庫へまた帰って参りました。」関西学院大学文学部日本文学ご出身であり、神戸に縁のある原田マハさんにとって、兵庫県、神戸、西宮は大学時代を過ごした特別な場所であるという。友人が住んでいた芦屋川の桜、母校の関西学院大学、谷崎潤一郎の別邸(谷崎が大作『細雪』を書いた邸宅で、原田さんは谷崎をテーマに卒論を書いた)、宝塚・・・。こうした兵庫の名所は、憧れの地として原田さんの小説にも度々登場している。
また原田さんは、松方幸次郎(川崎造船所の初代社長、神戸ガス、神戸新聞の社長でもあった神戸縁の人物、そして国立西洋美術館(東京)に所蔵されている膨大な作品群―松方コレクションを遺した文化人)について調査をする目的で最近兵庫に足繁く通っているそうであるが、この松方コレクションの辿った数奇な運命について書いた小説「美しき愚かものたちのタブロー」を現在週刊文春にて連載中である。
ベストセラー作家でありながら、現森美術館キュレーターとしての経験もある原田マハさん。アートと文学の領域を横断し活躍する彼女の考える「ボーダレス」とは、一体何なのか?



ボーダー、あるいはボーダレスについて
「まず、皆さんに、一枚のアートワークを観て頂きます。これを見たご自分の第一印象を心に留めて頂きたい。どんな印象を持たれましたか?空が見えましたか?海が見えましたか?水平線がみえましたか?それとも、全部が見えましたか?」
原田さんがスライドで見せたのは、杉本博司の代表作「sea scape(海景)」。世界中の海を様々な季節・時間の中で撮影したシリーズ作品である。原田さんは、杉本博司の「海景」をこの講演会におけるひとつの提案(subjection)として提示した。
原田さんにとっての「境界線」とは、自分の中におけるテーマ、問いかけである。同氏はこれまで自身の小説の中でさまざまな「境界線」について取り上げてきたという。

「境界線」をテーマとして書いた最初の作品は『さいはての彼女』(2008)。北海道を舞台とした短編集で、登場人物の少女ナギは耳が聞こえないが、大きなハーレーに乗っていて振動でバイクの気持ちが分かる。子どものころに聴覚を失ったナギは、心に深い傷を負っており、彼女と友達との間にある線のようなものを越えていくことができないと嘆いている。そんなナギに対し、彼女の父親は「そんな「線」はどこにもない。もしあるとしたら、お前が勝手に引いた「線」なんだ。そんなもん、超えていけ。どんどん超えていくんだ」と励ます。

2番目に出てくる「境界線」は、明確に「国境」について書いた作品である『翼をください』(2009)。原田さんが小説家になって間もない2006年ごろ、毎日新聞で4年に渡り連載された作品で2009年9月に刊行された。この作品はアメリア・イアハートという実在の人物をモデルに描かれた歴史小説であるが、世界の列強が軍拡を進め、国境を守ろうとする1930年代を舞台としている。主人公のエイミー・イーグルウィングという女パイロットは、空を飛ぶことが好きな理由について「空の上から見ると、国境なんてどこにもない。世界は、ひとつなのだ」という。国境とは何なのかについて問いかけ、世界平和について考える物語となっている。



『太陽の棘』(2014年)では、戦後間もない沖縄の地に精神科医として赴任したエドが、現地のアートヴィレッジに迷い込み、沖縄の人々と交流をする物語である。「勝者と敗者、支配する者と支配される者、持つ者と持たざる者、私たちを隔てるものはいくつもあった。・・・ 私たちは、そのとき、勝者でも敗者でもなく、占領するものでも占領されるものでもなかった。私たちのあいだには、いかなる壁も、境界線もなかった。私たちのあいだには、何枚かの絵があった。ただ、それだけだった。それだけで、よかった。」

そして『異邦人(いりびと)』(2015)では、「境界線」はより象徴的な存在として登場をする。コレクターの家に生まれ審美眼を養ってきた主人公菜穂。その夫カズキが、家の壁に架かっていた妻のコレクションである、杉本博司の『海景』をしみじみと眺めながら回想をする。「・・・作品には、モノクロームの海と空が写されており、水平線がそのふたつをきっぱりと分断している。しかし菜穂には、それが「融合しているように」見えるのだという。永遠に交わることのできぬ空と海とが、ひとつの画面の中でぴったりと合わさったように見えると。静かに呼吸を止めたかのような海と空は、確かに、作品の中で見事に融和しているのだった。」
空と海との「融和」。これは主人公菜穂の見方であり、原田マハさん自身の見方でもあるという。「水平線とは空と海を分かつものではなく、空と海とが一つになっている証拠」なのである。

それでは、境界線(ボーダー)とはなにか?
その問いに対し原田マハさんは、そもそも境界線などない、と言う。
ボーダーが我々人間のイマジネーションで生まれるものであれば、そもそもそれは存在せず、そしてボーダーという概念が存在しないのであれば、ボーダレスもまた存在しない。そもそも私たち自身は一つの融合された社会をつくっているので、それを分断する境界線もまた存在しない。原田さんは、この考え方はアートの世界にも存在すると考えている。

点・線・面
「<点>をアートとします。<線>は<点>を分け隔てるものではなく、<点>の軌道・行動、すなわち私たち自身のアクティヴィティです。芸術家にとってはクリエーション、キュレーターにとっては企画展示、作家にとっては執筆活動、人々にとってはネットワーキング(オンライン)などが該当します。そして<面>とは、アクティヴィティの<場>と考えることができます。場とは私たちが支えている社会(全体)であり、アートの現場である美術館であり、小説を書いて発表している雑誌・インターネットなどのメディア、または小説そのものであるといえます。」
原田さんは、この点・線・面の3つを分け隔てるのではなく、ひとつの融合されたものであると考えている。アートと人々が出会う場が美術館であり、アートと読者を結びつける場が、原田さんの書いている、書きたいと思っている「アート小説」であると。
私たち個人個人は確かに点かもしれない、しかしその点と点が行動を起こすことで、アクションすることでその軌跡が線となり、その線がつながってやがて大きな面になっていくと考えられるのではないか。点から派生して面になっていく過程には、どこにもボーダーラインなどない。

美術×文学 アート小説という解
原田さんが、アートと読者を結びつける「アート小説」へたどり着くまでにはエピソードがあった。
原田さんと兵庫県立美術館との出会いは14歳、中学2年生の時。「ムンク展」をどうしても見たいと思い、父親に連れて行ってもらった。「中二病だったんですね。ミュージアムショップでポスターを買って、「叫び」は中二病だったので買っていないですけど、『マドンナ』というエロティックな作品のものを買って部屋に張っていました」と原田さんは振り返る。原田さんは学生の頃から、アートと自分が不可分なものであるという意識があった。
「関西学院大学時代に忘れられない出会いがありまして、友人が画集を持ってきてくれて、それがアンリ・ルソーだったんです。自分が絵をかく学生だったので、それをみてへたくそだなあと思ったりしたんですけど、上手いとか下手とかを超越したものを感じたので、ルソーのことを調べ始めました。」
原田さんは、岡谷公二の名著『アンリ・ルソー 楽園の謎』(1993)という本を読み、ルソーという人が絵に関してユニークな才能を持っているだけではなく、人間としてすごく面白い人だということを知った。そして自分の中でルソーと自分がコラボレーションをしたいという気持ちが強くなったという。
「ルソーに関する小説を探したんですが、なかなかなくて、そのとき思ったのが、アートと小説が一体化している小説はないのかな、と。」そうして誕生した最初のアート小説が、ルソーの絵画『夢』(1910)をテーマとして書かれた作品『楽園のカンヴァス』(2012)である。
原田さんは当初からアート小説を書いていたわけではなく、ラブ・ストーリーの作品でデビューした。原田さんにとってアート小説とは大切なカードであり、『楽園のカンヴァス』はデビュー後3年寝かせて書かれたものであった。大学時代の発想から25年の月日を経て、ようやく『楽園のカンヴァス』は出版された。単行本化の際は、日本を代表する美術史学者であり大原美術館の館長である、高階秀爾氏が解説を担当するなど、まさに美術の粋と原田さんの夢が詰まった作品となった。

2018年刊行の『常設展示室』を始め、近年原田さんは、常設展に注目した新しいアート小説を執筆している。「常設展にはテーマがあり、学芸員の思いがこめられている。そのコレクションがなぜ、どういった経緯で集まっているのか、考えると奥が深い。」と原田さんは言う。「県立美術館のコレクションは県民のものであり、県民の友人。県立美術館という家に住んでいる友人に会いにいくつもりで、常設展に行ってみてほしい。」




原田マハ × 蓑豊(兵庫県立美術館館長) 対談

―わたしの作品は「良き入り口であり、良き出口」であってほしい。小説を読んで、現実の世界の美術館に作中で登場した作品があるということを調べて、そして足を踏み入れて頂きたいのです。(原田マハ)
―マハさんのストーリーを読んで、美術作品に興味を持った人はたくさんいると思う。ストーリーが、美術をもっと追求したいと思わせてくれる。(蓑豊館長)

(以下 原田マハさん=マ、蓑豊館長=蓑))

蓑:杉本さん(杉本博司)とは、ニューヨークで彼がまだ新人の頃から友人。(原田さんが講演会で同氏の『海景』を取り上げたことについて)何かの縁を感じた。

マ:蓑館長はリビング・レジェンドです。館長の一番素晴らしいところは、アートが大好きであるところ。ありとあらゆるジャンルを愛し、作品に対するリスペクトを忘れていない事が、全身から溢れている。館長とお話をしていると、いつも時間を忘れそうになる。(館長のような)著名人の方の見たもの、聞いたものをメディア・文章に写して残さなければ、という書記者としてのミッションが私にはある。

マ:館長は芸術の世界に入り、シカゴ・アート・インスティチュートの東洋部門の部長をされていました。世界に飛び出したきっかけは何でしょうか?

蓑:中国美術をやっていたんですが、世界の人に理解してもらうにはアメリカにいくしかないと。日本語で文章を書いても、狭い世界で知れ渡るだけで世界の人に知ってもらえないと考えた。また、アメリカのオブジェクティヴにものを見る方法を勉強しなければいけないなと。
トロントのロイヤルオンタリオミュージアムには、8000点近い中国陶器のコレクションが手付かずで眠っているんですけれども、それらをカタログにしてほしいという依頼があったので、英語が全く喋れない中でアメリカに行った。そこで勉強の楽しさ、調べることの楽しさを感じた。物事を科学的に論説するだけでなく、向こうの人には、なぜそうなのかを証明してみせなければならない、アメリカではそれを学んだ。日本の若い方は、外国に行って勉強する喜びをもっと感じてくれたらいいと思います。今は留学に行く学生が少ないと聞いている。ものの分かる人は、言葉がわかるよりも尊敬される。私は大学を出て、3年半美術商に行った。その3年半がなければ、外国へ行って英語もできないで尊敬されるということはなかった。



マ:蓑館長は、伝説の古美術商の「壺中居」というところから出発されたんですね。若いときに小林秀雄、青山二郎、白洲正子などの伝説の目利きに送り出されたことは修行になったと思いますか。

蓑:そうした仲間と集まって、美術談義とかしたことはお互いに勉強になりました。小林さんは本当に親身になって案内してくれた。恥ずかしがらず、飛び込んでいったのがよかった。自分に自信もついたし。それで外国にいくことになった。お世話になった人には、感謝することを忘れずに日々やっている。

マ:川端康成に会ったりもしましたか?

蓑:よく「壺中居」にいらしてましたからね。吉田茂さんとか、普通では会えないような人に会って仕事をしたことはすごく自分の自信になったし、外国へ行ってもやっていけるなと思えた。

マ:何かの小説のネタにさせて頂きたいと思います。トロントからシカゴに行ったきっかけは何ですか?

蓑:トロントへは恩師の小山冨士夫先生の紹介でいったんだけど、船で2週間かけて、ついたら先生から電報が来て、学者になるまで君は日本に帰ったらだめだと。そしてトロントでは、上司からハーバードで博士号をとるようにいわれました。結局6年いて(博士号を)とることができましたけれど、上司が私を信じてくれなければ、できなかったと思います。でも努力さえすれば、実際にとることはできます。大事なのはステップ・バイ・ステップ。飛び越えないで、じっくり、できる範囲でやることです。



蓑:人をドキドキさせるような展覧会、美術館にしたいと思っている。例えば、カエル(フロレンティン・ホフマンの作品《Kobe Flog》※愛称『美かえる』)を美術館に乗せてみるとか・・・ミュージアム・ロードという名前や2号線沿いのスペースを利用して、ここに美術館があるんだぞ、ということをつくれたらいいと思う。私はここの美術館の三代目館長ですけど、前の人を尊敬しつつ、私は私なりにこれからまた新しい兵庫県立美術館をやっていく。

マ:先人の遺したものは宝だと思う。まず美術品そのものが先人の創った文化財。同時に、先輩方が何を見て何を感じ、何を表現してきたかを伝えていくことも大事。
インターネットが普及し、今やボーダーを感じる人のほうが少なくなったかもしれない。その一方で、現在とは部屋から一歩も出ずに、どこにでもアクセスできる時代になったとも言える。気になった絵も調べれば画像がすぐにでる。さっと調べるにはいい方法ではありますが、ただそれは、本物の絵とは全く違うということを知ってもらいたい。そういう点で本物を見せることのできる美術館の役割は、今後ますます重要になってくると思います。

蓑:今の人は、インターネットで調べて、それがあっている情報かどうかを考えたりしないことが恐ろしい。インターネットは便利だが、自分の力で探すということの喜びがなくなってしまったことが、今の人は、私から見れば、かわいそうに思う。

マ:インターネットにはいい所も悪い所もある。『楽園のカンヴァス』の執筆では、読者に端末で調べさせることを意識して書いた。今の時代は皆端末を持っているので。私が期待していることは、本の中のことだけでなくさらにその先まで調べて、じゃあ本物を見に行ってみようというような、一歩現実の世界に出てきてもらうこと。わたしの作品は「良き入り口であり、良き出口」であってほしい。ああ面白かった、だけじゃなくて、現実の世界の、ここの美術館に作中で登場した作品があるということを調べて、そして足を踏み入れて頂きたいのです。

蓑:マハさんのストーリーを読んで、美術作品に興味を持った人はたくさんいると思う。白樺派が興味を持って印象派を取り上げ、大原美術館が日本で初めて西洋美術の世界を広めたが、こうしたことは美術に対するすごい貢献です。マハさんもその入り口を開いた。我々のような普通の文章ではなくて、ストーリーがあり登場人物があるという点が、美術をもっと追求したいと思わせてくれる。

マ:アートは私にとって友達、美術館は友達の家。常設展は友達の部屋です。私も出先で10分もあれば、その土地土地の常設展示室に行って、難しいことは考えずに「元気にしてた?」という感じで挨拶をする。そしてすっかりリフレッシュして帰る。わたしは美術に対して、人生を通して感謝をしています。

蓑:県民の皆さんには、美術館をもっと自分のリビング・ルームのように使ってほしい。

マ:作品を守りたい、という気持ちを皆さんと共有したい。コレクションが友達ならば、館長は友達のお父さん。皆さんに対して何の境界線もなく、風通しよく、美術館のドアを開けて待っています。

蓑:今日は、どうもありがとうございました。これからのご活躍も楽しみにしています。

2018年11月24日 兵庫県立美術館にて



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