本展は、1999(平成11)年に逝去した日本画家、東山魁夷の没後はじめての総合的な回顧展です。 東山魁夷は、1908(明治41)年横浜に生まれ、3歳から18歳までの15年間を神戸で過ごしました。県立第二神戸中学校(現在の県立兵庫高等学校)卒業後、東京美術学校日本画科に入学、在学中に第10回帝展に初入選し、1933(昭和8)年にはドイツ留学を果たし、ベルリン大学で美術史を学びました。しかし、父親の病気のため留学半ばで帰国してからは、戦争による疎開、従軍、相次ぐ肉親の死といった試練に見舞われることとなります。 第二次大戦後の1947(昭和22)年、《残照》が第3回日展で特選・政府買い上げとなり、これを契機として以降東山は代表作《道》など、澄んだ清らかな色調の静謐な風景画をつぎつぎと発表、1956(昭和31)年に日本芸術院賞受賞、1965(昭和40)年に日本芸術院会員となり、1969(昭和44)年には文化勲章を受章するなど戦後の日本画壇に大きな功績を残しました。また1971(昭和46)年より1982(昭和57)年まで10年余の歳月をかけて完成された、奈良の唐招提寺御影堂の障壁画制作は、戦後の日本画史上の大きな成果として位置づけられています。 戦後、日本画そのものの存在が厳しく問い直された情況の中、東山魁夷は、美術界をとりまく様々な現象に歩調を乱されることなく、静かに風景と対峙し誠実に自己と向き合いながら風景画を描きつづけました。日本独自の美意識や伝統、西洋の美術に対する深い洞察と理解に裏打ちされた思索は、数々の著述の中にも表わされ、また作品にも投影されています。 人生の中で最も多感な時期である青少年期を送った地が、その後の人格形成や思想に少なからず影響を与えることは想像に難くありません。神戸はまさに東山魁夷がその時期を過ごした土地であり、画家の最初の随筆集「わが遍歴の山河」(1957年)によれば、派手好きで贅沢で楽天家であった父と、父の様々な所業に黙々と耐えた母という相反する性格の両親の下、特に母親の苦悩をより敏感に感じながら成長した東山の心を慰めたのが神戸の自然、六甲の山々や陽光明るい淡路島や須磨の海岸であったといいます。また、ドイツ留学から帰国後の初めての個展を開いたのも神戸でした。このように神戸は、画家自身が心の故郷を回想しているように、青春期の苦しみも喜びも送った懐かしい土地として終生画家の心中にありつづけました。 東山魁夷と兵庫県立美術館との結びつきも、当館の前身である兵庫県立近代美術館開館直後に開催された東山魁夷展(1971年)に遡ります。その後1988年にも大規模な東山魁夷展を開催して多くの観客を集めました。さらに2001年には、兵庫県の震災復興に心を注いでいた東山魁夷の遺志を受け継ぎ、夫人の東山すみ氏から画家の版画256点が寄贈されました。 本展は、東山魁夷の心の故郷である神戸の地で、東京国立近代美術館、長野県信濃美術館 東山魁夷館、そして唐招提寺の全面的協力を得て開催するものです。油彩で描かれた初期の自画像や東京美術学校在学時の作品、戦前の紀元2600年奉祝展出品作で後年に連作となった「白い馬」の原型ともいえる《凪》、戦後画家の歩む道を方向づけることとなった代表作《残照》《道》ほか、古都を描いた「京洛四季」のシリーズ、北欧やドイツ・オーストリアの風景を取材した作品を含む代表作、そして東山芸術の集大成といえる唐招提寺御影堂の障壁画《山雲》《濤声》《揚州薫風》など総数約90点を展示し、その全貌に迫ります。 |
![]()
![]()
![]()
![]()
|
|
|
|