PROFILE
兵庫県が舞台の作品に「ちぬの海」がある。明治7年(1874)大阪府堺市生まれ。明治20年(1887)頃から新体詩に親しみ、祖母の反対にあいながらも文学を志し、詩作を続けた。明治28年(1895)招聘されて「文庫」の記者となり、詩欄を担当。この「文庫」から、伊良子清白、横瀬夜雨、島木赤彦、北原白秋、服部嘉香、川路柳虹らが出て、詩人育成に大きく寄与することになる。のちに与謝野寛、晶子夫妻と交遊し、明治30年代の代表的詩人として活躍した。また、明治40年(1907)6月、詩草社を設立し、「詩人」を発行。口語自由詩運動の舞台を提供すると共に、自らも口語自由詩に詩風を転換し、近代散文詩の先駆者とみなされるようになる。女流詩人育成にも力を注ぎ、「女子文壇」を10年間主宰。その後、大正2年(1913)婦人之友社に入社。さらに昭和5年(1930)には自ら女性時代社を設立。「女性時代」を創刊して女流詩人の活躍の場を与えた。昭和12年(1937)帝国芸術院会員に推され、戦中、戦後も活発な作家活動を示し、昭和40年(1965)1月、90歳で長逝した。
《 略年譜 》
年 | 年齢 | 事項 |
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1874 | 0 | 5月7日、大阪府堺市に父・又平、母・せいの子として生まれる。幼名は幸三郎。 |
1881 | 7 | 錦西小学校に入学。 |
1890 | 16 | 文学に理解を示した母が急逝。京都に出奔して連れ戻される。幸田露伴、尾崎紅葉などの小説に親しんだ。 |
1891 | 17 | このころから「少年文庫」や「いらつめ」などの雑誌に積極的に詩歌、小説を投稿し始める。 |
1892 | 18 | 1月、岡山、神戸を回って上京。やがて説得され、帰郷する。 |
1895 | 21 | 1月、伊良子清白来訪。雑誌「文庫」の記者に推薦され、8月、京阪神、奈良を旅行して上京。「文庫」の詩の選評を始めるが、12月に祖母に堺に連れ戻される。 |
1899 | 25 | 小林天眠らの浪華青年文学会(この年「関西青年文学会」と改称)の幹部になり、機関紙「よしあし草」の詩歌欄編集を担当。4月3日、神戸垂水で開催された関西青年文学同好者大会に出席し、江見水陰らと会った。 |
1900 | 26 | 上京。「文庫」詩人たちのアンソロジーを編集しつつ、自身の詩集「無弦弓」出版を準備。 |
1901 | 27 | 1月、第一歌集『無弦弓』刊行。東京専門学校(後の早稲田大学)に聴講生として通い、坪内逍遥、島村抱月などの教えを受けた。 |
1903 | 29 | 「電報新聞」入社。社会面を担当。 |
1905 | 31 | 広津柳浪の紹介で「女子文壇」編集に携わる。 |
1907 | 33 | 「文庫」から独立して詩草社を設立。「詩人」を創刊した。 |
1913 | 39 | 女子文壇社を退社し、婦人之友社に入社。翌年、「子供之友」編集にあたった。 |
1927 | 53 | 現代詩人協会設立(1931年解散)に参画。幹部に加わる。 |
1930 | 56 | 11月、女性時代社創立。「女性時代」創刊。 |
1941 | 67 | 6月、大日本詩人協会(翌年解散)創立。本部を自宅に置いた。 |
1942 | 68 | 12月、日本文学報告会詩部会創立総会に出席。 |
1948 | 74 | 女性時代社を解散、あらたに「塔影詩社」をおこす。 |
1950 | 76 | 5月、日本詩人クラブ創設と同時に名誉会員に推される。 |
1956 | 82 | 日本文芸家協会名誉会員に推される。 |
1965 | 91 | 1月17日、急性心臓衰弱により死去。 |
- 兵庫県との関係
- 舞台・訪問 神戸
代表作品
作品名 | 刊行年 | 版元 | 備考 |
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無弦弓 | 1901 | 内外出版協会 | |
塔影 | 1905 | 金尾文淵堂 | |
霧 | 1910 | 東雲堂書店 | |
明治代表詩人 | 1937 | 第一書房 | |
酔茗詩話 | 1937 | 人文書院 | |
酔茗詩抄 | 1938 | 岩波書店 | |
真賢木 | 1943 | 金尾文淵堂 | |
酔茗随筆 | 1943 | 起山房 | |
花鎮抄 | 1946 | 金尾文淵堂 | |
詩の作り方 | 1948 | 民生本社 | |
千里横行 | 1966 | 塔影詩社 | 河井酔茗詩集 |
東京近郊めぐり | 1992 | 大空社 | |
兵庫ゆかりの作品
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