Q1  「南画」って何ですか?

Q2  どうして「南画」って言うのですか?

Q3  「南画」はいつ、どうして描かれるようになったのですか?

Q4  南画の創始者は誰ですか?

Q5  ほかにどのような画家がいますか?

Q6  南画は文人画とは違うのですか?

Q7  南画を特徴づける思想や理論はありますか?

Q8  南画の表現の特徴はどういうものですか?

Q9  江戸時代以降の展開はどのようなものですか?

Q10  南画は明治以降どんどん衰退していったのですか?

Q11  なかなか面白い展開ですね。で、結局南画って何ですか?

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Q1  「南画」って何ですか?

A1  中国の元・明の絵画に影響を受け日本で18世紀半ば(江戸時代後期)におこった一つの画派をいいます。

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Q2  どうして「南画」って言うのですか?

A2  中国絵画のひとつ、南宗画(なんしゅうが)に由来し、その略語とされています。
南宗画とは明時代に生まれた言葉で中国・江南地方の平坦な地形と温暖な気候風土のもとに生まれた山水画をいいます。これに対し、北宗画(ほくしゅうが)というものがあり、これは中国・華北地方の険しい山岳や岩山を硬い輪郭線で描いた峻厳な山水画を指しています。日本の画家たちが主にならったのが南宗画であったため、その略として南画という言葉が生まれたといわれていますが、実際にその言葉が使われ出したのは江戸末期ごろからのようです。

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Q3  「南画」はいつ、どうして描かれるようになったのですか?

A3  江戸幕府の御用絵師であった狩野派の保守的傾向にあきたらなくなった絵師たちが、新しい表現や自由な創作を求めて中国の絵画を独自に学んだ結果、南画というジャンルが生まれました。
当時日本の画壇の中心であった狩野派は粉本(ふんぽん)というお手本にならって絵を学ぶシステムになっており、あるレベルに達するとそれ以上の自由で面白い表現が生まれにくかったのです。

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Q4  南画の創始者は誰ですか?

A4  初期の南画家(南画の第一世代)としては、祗園南海(ぎおんなんかい・1676-1751)、服部南郭(はっとりなんかく・1683-1759)、柳沢淇園(やなぎさわきえん・1704-1758)、彭城百川(さかきひゃくせん・1697-1752)といった画家がいます。彼等は中国絵画の模写や中国から輸入された画譜(図案集のようなもの)を参考として中国風の山水画を描きました。

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Q5  ほかにどのような画家がいますか?

A5  池大雅(いけたいが)、与謝蕪村(よさぶそん)は江戸時代の南画家の中で最も有名で、南画の大成者ともいわれています。大雅は中国絵画に深い憧れを抱きつつ、日本国中をしばしば旅し、旅中での写生や実体験にもとづく作品を描いて独自の世界を確立しました。その豊かでおおらかな画風は後世にも大きな影響を与えました。
また与謝蕪村は俳人としても有名ですが、画家としても優れた作品をのこしています。透明感のある色彩で日本的な情感漂う作品を描きました。
そのほか、浦上玉堂(うらかみぎょくどう・1745-1820)、谷文晁(たにぶんちょう・1763-1840)、田能村竹田(たのむらちくでん・1777-1835)など多くの画家が現れました。江戸後期から明治初期にかけては南画がたいへん流行しました。

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Q6  南画は文人画とは違うのですか?

A6  南画を文人画と呼ぶこともありますが、それらは全く同じ意味合いではありません。
文人画とはもともと中国で「文人」の描いた絵画を指しています。文人は、唐代に科挙の制度の確立とともに生まれた士大夫という官僚、知識人を指し、宋代に入り支配階級となった人々をいい、儒教的思想を背景に高い教養をもち、知的修練のひとつとして絵画制作を行いました。彼ら文人が描いた絵を文人画と呼んでいます。
日本の南画家たちが手本としたのは主にこの中国の「文人画」でしたが、他方日本には中国でいう「文人」(支配者層=文人)は存在していませんでした。江戸時代の支配階層は武士でしたが、日本でいう文人=学者は武士に仕えていましたし、上に挙げた大雅や蕪村は絵を売って生活する「職業画家」であり、非職業画家であった中国の文人とは立場や状況が異なっていました。ですから日本では真の意味での「文人画」は起こりえませんでした。しかし日本の画家たちは中国文人に憧れその理論を信奉したゆえに彼等の描いた絵画を「文人画」と呼ぶこともあるのです。

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Q7  南画を特徴づける思想や理論はありますか?

A7  南画の根底に流れる思想は、中国の文人画の考え方に由来しています。それは優れた絵画は優れた精神、人格によって生み出されるという考え方で、絵の外形よりも画家の内面や精神を重視するというものです。中国絵画の理論のひとつに「気韻生動」(きいんせいどう)というものがありますが、それは生き生きとした情緒や風格が絵に漲っていることをいい、それは画家の精神の充実、高い人格から生まれてくるという考えかたです。南画の考えかたも概ねこれにならっています。
もうひとつは、詩書画一致というものです。南画には画中に詩が書かれていることがありますが、詩とそれにふさわしい書体、詩の世界の絵画化、これらが調和しているのがよい絵画であるというものです。

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Q8  南画の表現の特徴はどういうものですか?

A8  南画の表現は多様でありなかなか一言で説明することは困難です。南画は確かに「南宗画」の略語ではありますが、日本の南画家がすべて「南宗画」を手本として描いたわけではなく、さまざまな種類の中国画を学びました。やわらかい筆遣いの山水画もあれば、険しい山岳を厳格な表現で描いた山水画、また極彩色の花鳥画といったものもあり、表現は多種多様です。強いていえば水墨を主体とし、柔らかい筆づかいで山水を主に対象に描いた絵画といったところでしょうか。

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Q9  江戸時代以降の展開はどのようなものですか?

A9  江戸末期に読書人口が著しく拡大し、文人の大衆化という現象がおき、それにともない、南画は知識人の教養のひとつとして愛好されました。技術よりも人格を重視する南画の考え方により、素人でも容易に描けるということも普及の一要因であり、幕末から明治にかけて南画は大変流行しました。
ところが、明治15年、近代日本画の育成に尽力したアメリカ人、フェノロサは美術に関する講演の中で、南画を批判しました。それに同調するように当時の新聞紙上では「つくね芋山水」と表現され、南画を非難する傾向が生まれました。以後南画は近代絵画発展を妨げる陋習というイメージが植え付けられ、一時の隆盛はなくなります。しかし南画家たちの中にも近代化を目指し、さまざまな団体が結成されるなどの動きも見られるようになりました。

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Q10  南画は明治以降どんどん衰退していったのですか?

A10  いいえ、再び注目される時がおとずれます。明治末から大正にかけて南画を再評価する動きが現れました。日本画の革新に燃えていた当時の若き日本画家たちが西洋の後期印象派などの表現に着目する一方で、南画に目をむけるようになります。というのは、作家の精神(内面)を重視するという南画の考え方を当時のヨーロッパにおける絵画の非写実的傾向(=表現主義の絵画)と重ねあわせようとしたのです。西洋で先端を行っている動向は、南画にも通ずるものがあると考え、再び南画の伝統を見直そうとする気運がおこりました。その結果、「新南画」とよばれる絵画が生まれました。また洋画家の中にも萬鉄五郎や梅原龍三郎など、日本的洋画を模索する中で、南画にヒントを得て、影響を受けた作品を描く画家も表れました。この南画再評価の一連の動きは、南画に日本絵画のアイデンティティーの一端を見出そうとする試みの一つであったと考えられます。

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Q11  なかなか面白い展開ですね。で、結局南画って何ですか?

A11  それは展覧会をご覧になって、一緒に考えてみませんか?