学芸員の解説広場
青山熊治 ≪高原≫



青山熊治《高原》油彩・布 
1926(大正15)年 201.8×363cm
 コレクション展IIの最初の展示室に入るとすぐに、ひときわ大きな作品が私たちの目を引きます。青山熊治の《高原》です。横幅3メートル63センチという大きさは、当館の所蔵する近代洋画のなかでは最大です。  この作品は、今から約80年前の1926(大正15)年の秋に開催された第7回帝展(帝国美術院主催美術展覧会)という、当時もっとも権威のあった政府直属の展覧会に出品された作品です。これだけ大きな作品ですから、展示会場でもかなり目立ったことでしょう。展覧会では他の7名とともに西洋画部門の特選となり、さらに洋画では唯一の帝国美術院賞も受賞しました。もちろん大きさだけで特選や美術院賞となったわけではないでしょうが、その時の美術雑誌で「量の上からも容易な業ではない」とか、「あれ丈の大きなものを仕上げるのに最後迄少しも疲れていない」と書かれているように、やはりこの巨大なサイズも評価に影響を与えたようです。

 熊治は、翌年の帝展にもやはり大作の《雨後》(当館所蔵)を出品して高い評価を得ます。そして、その翌年の1928(昭和3)年には、早くも帝展の審査員にまで昇りつめています。ですが、そこまでの道のりは決して平坦なものではありませんでした。

 青山熊治は、1886(明治19)年に兵庫県北部に位置する朝来郡生野町(現在の朝来市)に生まれました。生野町は政府直轄の銀山で栄え、文化面でも先進的な空気をもっていたようです。この町からは、洋画家の白瀧幾之助や和田三造も東京に出て活躍していました。熊治も17歳の時に洋画家を志して上京します。

 東京での熊治は、画家として順調に歩み始めます。1907(明治40)年、東京美術学校に在学中の21歳の時には、東京府主催の東京勧業博覧会に出品した《老坑夫》が展覧会の2等賞となりました。1910(明治43)年には、当時最も大きな美術団体のひとつだった白馬会が主催する展覧会に、《アイヌ》を出品して白馬賞を受賞します。さらに同じ年に、政府が主催する展覧会の第4回文展(文部省主催美術展覧会)でも《九十九里》という作品で3等賞を受賞します。そして翌年の文展では、《金仏》で最高賞の2等賞を獲得します。この歩みは、画家としてまったく順風満帆に見えました。

 この風向きが一変するのは、ヨーロッパに絵画修行に出た頃からでした。多くの画家が神戸から船に乗り、インド洋経由でヨーロッパに向かった時代に、熊治は満州からシベリア鉄道でロシアを横断し、陸路でヨーロッパを目指しました。途中の満州で絵を売り、その代金を旅費の足しにしようとしたためです。1914(大正3)年3月に日本を出発した熊治は、数ヶ月を満州の大連で過ごし、7月末にヨーロッパに向けて出発しています。そして8月中旬にモスクワに到着した熊治でしたが、運悪くヨーロッパは第1次世界大戦の最中で、すんなりとはパリに向かうことができませんでした。
熊治は、モスクワやペトログラード(ペテルブルク)で約1年を過ごし、フィンランド、スウェーデン、ノルウェーを経てイギリスに渡り、そこからパリに入っています。ところが、ようやくたどり着いた念願のパリでは、戦争のために美術館が閉鎖されていました。やむなく、美術館に入ることができる南仏やイタリアへと、画家仲間の日本人と旅行を続けています。

 そうこうするうちに、熊治は帰りの旅費も使い果たしてしまい、日本に帰国することさえできなくなってしまいました。パリでは「パンの一片を一週間もながめ乍(なが)ら暮らしたのが、一番苦しい時だった」と、後に親しい友人に語っています。また、フランスの田舎で森林伐採の肉体労働に従事したこともあったようです。この時は、あまりの重労働に体調を崩して、わずか2週間で解雇されてしまったようです。

 それでもようやく、日本で活躍していた頃からの友人たちの助力で、1922(大正11)年4月に帰国することができました。日本を出発してから、8年以上もの歳月が流れていました。そしてこの長い苦労の放浪中に、熊治の名前は画壇から完全に忘れ去られていたのです。

 帰国後もしばらくは貧しい生活を送りますが、知人の援助で画材を手に入れて、久しぶりに取り組んだ大作がこの《高原》でした。この作品が特選と美術院賞を受賞した時の美術雑誌『アトリヱ』には、熊治の顔写真が掲載され、その下にこう書かれています。「青山熊治氏は文展でアイヌや九十九里で、二等賞、三等賞を得て当時天下に名を成した人、欧州大戦前から日本画壇より消息を絶つて欧州に血の出るような画行脚をすること七年、帰朝後も大森馬込の奥に隠れてゐましたが、忽然として大作「高原」を出品して院賞を得たのです。」

 青山熊治の《高原》は、その大きさとともに、ヨーロッパでの苦難を経て15年ぶりの中央画壇への復活という、熊治の劇的な人生そのものを象徴する作品として高く評価されたのです。

 この作品をきっかけに、熊治は再び画壇で活躍するようになります。1928(昭和3)年以降も、1930、31年と連続して帝展の審査員を務め、帝展に青山時代の到来とまで評されていたようです。ところが、1932(昭和7)年12月の帰省中に、熊治は急病で亡くなってしまいます。46歳の若さでした。ヨーロッパでの無理な生活がたたったのかもしれません。熊治の戒名は「高原院青空熊山居士」でした。それは、彼の人生において、この作品がもつ意味の大きさを物語っているようです。

当館学芸員 服部 正

 ※青山熊治について詳しくお知りになりたい方は、当館の美術情報センターで下記の文献をご覧ください。
『青山熊治没後40年記念展図録』 1972年、兵庫県立近代美術館編
『青山熊治画集』 1993年、青山熊治画集編纂委員会編、第一美術協会 ※青山熊治のヨーロッパでの生活は、雑誌『中央美術』1927(昭和2)年3月号と4月号に、本人が「欧州放浪記」という題で詳しく書いています。古い雑誌ですが、当館の美術情報センターではマイクロフィルムによる復刻版を所蔵しています。閲覧をご希望の方は、美術情報センターの受付カウンターまでお問い合わせください。

 学芸員の広場topにもどる